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私の尊い友人と、私の心の捻じれの吐露。

高校の頃、私の友人にとても絵の上手な子がいた。友人の描く絵はいつも手が通り抜けてしまいそうな透明感があるのに凛として力強かった。友人の絵が私は好きだった。

友人本人もとても穏やかで優しい人で、私には太陽の人に思えた。光がまっすぐ指してくるような、美しく温かい光を友人に見出していた。

私はいつも太陽のような友人に憧れるばかりでいた。自分でも異常に思うくらい、過剰な美化と憧憬の念を友人に向け続けていた。気づけば私は友人の描き出す色や線のうつくしさに自分がたどり着けないことがコンプレックスになり、次第に私の心にはじりじりと黒い影が出来あがる。
そうして出来上がった黒い影の中に含まれた妬みや嫉みといった意地汚さは、私の心を捻じ曲げながらも私の絵を描く原動力となっていた。

それから何年も経ち、私は高校の頃とは違った気持ちで絵を描くようになった。
何度かnoteでも書いているけれど、高校当時は家族からのプレッシャーや周りの影響で「何としてでも絵が上手くならなければ」とか「誰にでも愛されるような絵を描かなければ」と全ての力を絵を描くことに注いでいた。
今思えば我武者羅な愛しくて青臭い春だ。でも当時は他者の目も大事だとは感じながらも誰かの事を考えすぎて描く絵の中には私がどこにもいない事に嫌気がさしていた。重なることも追いつくこともない他人の存在に思いつめ続けた時代だった。
そうした苦悩と自己嫌悪の時代もあって、今は自分が描きたいものを目いっぱい描くことにしている。好きなように描いていくうちに、自分を追い詰めていた中では感じなかったけれど、今は自分の絵に深い愛情を感じたりもして純粋に絵を描くのが楽しい気持ちになってきた。

友人とは高校を卒業後別々の道を歩み、ほとんど会う事はなくなった。しかし数年前に私がひっそり自分の記憶保管のためにやっているインスタグラムをその友人にフォローされてからは何度かDM上で会話を交わし、時折友人が投稿する写真にいいねをするくらいの距離感でいた。

そして今日友人から突然LINEの方に連絡がきた。
内容は「個展をやるのでよかったら来てくれ」との連絡であった。是非行きたい、と思ったのだが、予定が合わない可能性が出てきてひどく悔しい気持ちになり肩を落とした。

インスタグラムで友人が日常の写真以外にも自身が描いた作品の投稿も行っていたので、どのような絵を描いているのかは知っていたけど、でもやっぱりちゃんと実物を見たかった。友人の今もなお燃えているであろう純なエネルギーを個展という場所で感じたかったなと思う。

同時に、その連絡を見て私は友人が今もキャンバスの上で筆を滑らせ自らの活躍の場を今も作り続けている姿がまた眩しく思えた。あの頃のように、また太陽の光に照らされることでやんわりと黒い影があらわれそうになる。

だが、友人はもう私の「目標」ではなかった。未だ憧憬の念はあれども、絶対に追いつきたい相手かといえば違う。私はもう「誰かのようになりたい」とは思わない。
それは競争や妬み嫉みから距離を取り今ある自分の姿を見つめてみて、他人が決めた上や下があろうとなかろうと「自分であること」は生きている限り変わらず、「私は他者と完全に同化することはできない」という事に気づいたからである。
無意識な羨望が黒々とした重く複雑な感情になりかけたときにこの気づきを思い出すことで、友人や私の前に現れるうつくしいひとたちに対する焦燥感は薄れた。

しかし焦燥は完璧に消えたわけではない。友人の姿を見て黒い影が姿を少し露わにしたように、何処かでまだ他人と競うためのレースの中を走っているような感覚に陥る。刷り込まれた「追いつけ追い越せの精神」が墓から蘇り、私の前向きでいようとする心臓を貪りにやってくる。

友人を応援したいという気持ちに嘘はない。ただ私の心がねじ曲がりすぎてしまっただけで、一人でのたうち回っているに過ぎないのだ。私は必死に自身の心臓を暗闇に食いつぶされまいと生きている事をここでひたすら書き連ね、友人はそんな私の内的な葛藤など知らぬまま、自らの道を進んでいく。それでいいのだ。というか、そうであってくれ。

私たちは一本の大きな道の上を歩いているんじゃなくて、一人一人の道を歩いている。時に交わることはあれど、ぴったりと同化することは絶対あり得ない道を歩いている。誰かの道を代わりに歩くということも出来ない。

それをわかっていても何処からともなく黒い影がぬらりと顔を出してくるような私の心の捻じれやこびり付いた不貞腐れを、これからも私の顔見知りに知らせる気はない。それは私が友人に見せたいものではないから。
でも、そういう内的な葛藤を言葉にしたい衝動は依然存在するものだから、私は顔見知りの存在しない渋谷のスクランブル交差点みたいにびゅんびゅんと人が行き交うインターネットを選んで文字を書いている。

今後、心の捻じれが治る保障なんて一つもないし、もはやこの捻じれた神経と心中する気でひたすら生きている。ただ、どんなに捻じれた心でいようとも固く決意しているのは「私の価値は私が決める。」ということ。私が美しいと思う私を生きるということ。
そして何度絶え間なく影が落ちても、私が美しいと思った人を愛したい。私が価値があると思ったものを愛でたい。苦しんでも、葛藤しても、私は太陽のような美しい人やものを尊びたい。

そうやってのたうち回りながらも美しいものを追っているうちに、むしろ心の捻じれによる葛藤を楽しんでいる自分が生まれ始めた。複雑な内面の変化に向き合う度段々と私が私だけのいびつな存在になっていっていることを感じ、確実に私は同化する欲求からかけ離れた自分の道を歩き出している。その心地に安心しながら、捻じれに蝕まれ続ける。多分ずっとこのままだ。そんな気がする。

随分長く書き散らしてしまったが(個人的な体感であるが)、今日こうして私の気持ちを吐露できてよかったと思う。ここで自分の生傷にも似た感情を一度さらけ出すことで、これからも私は自分の内的な葛藤を抱えながらも友人の描く絵を純に愛せる気がした。

友人とはこれからも付き合いを続けていきたい。友人がこれからどんな絵を描いていくのかが楽しみだから、私は友人の作品を追い続ける。
いかに心の捻じれからくる神経痛に苛まれようとも、うつくしいものに貪欲であり続ける事は私にとってなによりも大事なことだから。

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