充電期間宣言と私
ウワ~!noteのクリスマス休暇取ろうて決めたのに書きたいことあって書きなぐっちゃ〜う!!!!
でも書かせて。いや、私の中に言葉が溜まってボンバーマンなんだわ。
何がそんなに書きたいか、それは推しバンド、LUNA SEAのこと。と、私のこと。
まず、昨夜、私がいま人生で一番推していると言っていいLUNA SEAが休止期間を設けることを発表した。
正直、喉の不調はかなりライブ行ったときも感じてたし、いつも祈るような気持ちでボーカルを見て、歌を聞いていた。
てか何なら、無責任なこと言っていいなら、全然すぐにでも休んでもらっていいのに!!!!くらいの気持ちでいる。大丈夫だよほんと。無理しないでな…。
まあつまり、充電期間宣言にあんまりショックは感じてない。むしろ前向きで、これからもっと先のことの為に充電する訳だから、ほんと〜〜〜〜〜にゆっくり休んでほしい。そして、また歌を届けてほしい。
で、ここから私のくだらない話です。あんまり楽しくない話題やります。
話しますと、私はいつも希死念慮マシマシで生きてるってとこから始まりまして(唐突)
生でMOTHERを初めて聞いたときの得も言われぬ感動や、ライブでSweetest Coma Againのイントロのギターが紡がれた瞬間発狂したことや、そういう幸せな思い出を抱えて、「もういつでも死んでもいい。」とか「幸せなまま死にたい」とか希死念慮してしまっているわけです。
別に毎日が死にたいほど辛いのではなく、ただ本当に呆然と日常の中で疲弊しているんです。疲労が取れない。このじわじわと絞めあげられていくような苦しみから逃れられるのは「死」しかないのでは、と、心のどこかでやっぱり思ってしまってるのだと思います。
でも、死ねない。それは、もちろん死に対して伴う痛みとか恐怖があるのもそうですが、一番デカいのは毎日新しい推しに出会えるから、死ぬに死ねないということ。
死の瞬間が訪れる前に新しい推しが現れてしまう。推しが、というか推しの情報に出会えてしまうのですね。世の中便利だから。それはもうあっという間に。
「ライブやります!」
「アルバム出します!」
「自撮り!!!!」
これらの情報が与えられるだけで、勝手に身体は生きようとするのです。どんなに希死念慮マシマシでも、推しが活動を続けてくれる限り、私は生き延びます。
しかし、LUNA SEAは充電期間に入ると言いました。それはある種、私にとっての「死」なのではないか?
いやそうではないな。逆にむしろ寿命が伸びたと言っていい。
だって、充電期間が明けたら、もっとパワフルなLUNA SEAに会えるんだと思うと、私は勝手に生き延びてしまえる。生きようと思ってしまえる。希死念慮を抱えて「生きて推しに会いたい」と思ってしまえる。
会いたいから、生きる。会うために生き延びる。
何年かかってもいい。その分だけ生きていくし。頑張ってお金も稼ぐ。
死にたくても、死にたくて生きるという矛盾を抱えてでも、私は生きる。
今回、LUNA SEAの発表で私はそう決意できたような気がしました。
と、今日はそんな話をしたくてnoteを書きました。あんまり、希死念慮の話は周りにできないので、ここでそっと書いて供養供養ポンチコしたかった。(ポンチコってなんだ。)
長々話しましたが、最後にもう一つだけ。
LUNA SEAは私の生命を照らす月の光です。
だからこれからも、輝いていてほしい。
充電期間の中で、RYUICHIの喉が回復することを祈っています。
また会うために、私も生きるね。
本日はそんな感じで。