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ひとくち日記:私にとっての「服を着る」とは

今日はある記事を読んでいた。私が好きなクリエイター・millnaさんのインタビュー記事だ。

記事を読んでいて、millnaさんがyoutubeなどで「可愛い私になりたい、あなた方の為じゃない」という言葉や、「あるはずだった自分になりたかった」という言葉を残し続けている事を何度も思い浮かべていた。

YoutubeやTwitterなどで彼女の言葉を目にしたとき、私はそんな風にファッションスタイルについて深く新鮮な目線で考えた事はあまりなかったから「そうか、ファッションは『あるはずだった自分になるための行為』でもあるのか」と感心し、今も彼女の活動を追っている。

記事の中でも「あるはずだった自分」について語られており、millnaさんが「ファッション(衣服を着る、メイクをする、仮面をつけるというその全て)」というものをどのような視点で見ているのか、どのような思いを伝えたいのか、がわかる記事になっていた。

既存の身体や顔を仮面や服で作り変え「自分がなりたかった自分」を作る。ファッションも新たな肉体の一部にしてしまおうという意味を込めての「デコる」という言葉選びをしている。millnaさんの語る話は勇気を貰えるというよりかは酷く新鮮で、私には美しい思想であるというように感じた。いつも、彼女の言葉には驚かされ、感心するばかりである。

この記事の中で私が特に関心したのは「コスプレが理想の他者になりたいという変身願望なら、ファッションは理想の自分になりたいという回復願望だ」と述べられていた事。

私はよく推しているアーティストに似た服装とかアクセサリーとか、いわば「推し概念」というものをひたすら追いかけているのだけれど、その行動は変身願望と回復願望どちらなのだろうと考えさせられた。

彼女の言葉に出会う前は「推しに似たような服(コスプレ未満の)ばかり着て、推しを感じられるようなアクセサリーを選んで、私はどうなりたいのだろう。‘‘私が‘‘着たい服なんて本当はなくて、私は意思なく推しの真似事をするだけの空っぽな人間なんじゃないか。」と考えていた。

だけど彼女の言葉によって、私は私を生きてファッションを選んでいるのだなと思った。私の愛情とか色んな感情が塊になって「推しの概念を感じられる服」を選んでいるなら、それはもう「私が着たい服」であっていいのだなと。

私の中の愛の形が私のファッションになり、私が推しを愛さなければそのファッションは成り立たなかったのだから、私はちゃんと感情を持ちあわせて服を選んでいたのだ。私は空っぽなんかじゃなかった。そう思えた。

それから、私は「推しに完璧になりたい」のではなく、「推しを小さい事で良いから感じていたい」からと服を選んでいるという認識を得始めた。この「感じていたい」という欲求はどちらかといえば「他者」が関わってくるので変身願望寄りな願望なのだと思う。でも、「感じていたい」という感情を塗り重ねていく事で「あるはずだった自分」が完成していく気もしていて、一概に「こっち」というのが難しい。

とはいえ、どちらかともわからない複雑な願望の絡み合いが「私」を作っていくという事に変わりはないのかもしれない。私が愛した分だけ服やメイクの経験が積み重なっていくのだ。私はそれを楽しんで、尚且つ愛していきたい。

今後もクリエイターとしてのmillnaさんの何度も新しい言葉ならびに作品に注目していこうと思う。そして、millnaさんにはこれからも様々な事が起こり得るであろうが、今後もどうか健やかでいてほしいと強く願う。

これからも何度も彼女の言葉や作品に、沢山の感動や驚き、恍惚が抱けることがとても楽しみである。



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