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2021/4/16 物語と死生観を目的に合わせて選択するということ


日記を限定公開し続けると、いい振り返りを自分に課すことができるのではないかという実験です。

価値があるかはわかりません(多分ない)が、100年後には価値が出ているかもしれないです。すぐ辞めるかもしれません。

ジャンケレヴィッチは死について3つの区分を行った。第一人称の死、第二人称の死、第三人称の死というものだ。人(特に属性を指定しない人類一般)が死にゆくときにどのような変遷/変化を辿るのかというのは、これは彼の区分によると第三人称の死に相当する。それに対して、恋人や親族など自身と固有の関係性を持つ人間の死は第二人称の死に区分され、<私>自身の死は第一人称の死に分類される。

なぜこのような区分を行ったのか。彼が「死」という著書の中で死という概念に迫るためには、その多義性を紐解くしかなかったからかもしれない。

私たちは数多くの"死"に、数多くの形で触れる。街の交通事故による死傷者数を交番の看板で知り、遠い国の紛争で亡くなった子供たちの数を電車の中の広告で知る。統計的に死を引き受けることもあれば、幼い頃から面倒を見てもらった祖父母の死を緩やかな老いと共に感じていくこともある。そして、なぜ自分が生きているのか、何をすればいいのか。漠とした問いに襲われる夜に、自らの遠い死を見つめることも。

死というものが物理的な変化にすぎないと言ってしまえるということも(頭の中では)理解しているのだろう。ただ、その上で"自分自身という存在がどのようになってしまうのか"(あるいは、そうなる前にどのような存在たるべきなのか)、という有史以降答えが定まっていない命題に人類は頭を悩ませ続けている。

死を迎える時に後悔のしない人生ですか?という質問は近年の自己啓発本に必ず書かれているとも言ってもいい定番の問いだ。「もっと家族を大切にしていれば。。」「夢を追いかければよかった」「仕事ばかりの人生だった」。こんな後悔をしたくないから、自分の人生を生きましょうという論法だ。これ自体が20世紀後半以降かなりの個人の意思決定を助けているのは事実だろう。死ぬとき、もしくは老いを実感し始める頃に後悔をしたくないという考えは、人の行動を規定する要因の1つになっているはずだ。

ただ、違和感もある。本当に私たちは、いま私たちが想像できるような感情を今際の際に抱くのだろうか。いま想像している”未来に予見される後悔”は、私たちが「かくあるべき」と規定している人間像と実際の人生が乖離していることから生まれる後悔とも言える。だとすれば、その規定された人間像は妥当なのだろうか、そして不変なのだろうか。孤独に死んだ人間は、仕事に揉まれて過労死したサラリーマンは、夢を諦めて怠惰に生きた若者は、本当に後悔しなければならないのだろうか。彼らは、何かしらの"生きる意味"や"ミッション"なるものを達成できずに死を迎えることになったということなのだろうか。

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