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『わたしを離さないで』を原宿で思い出す
きっとこの一日を忘れないだろう。
ぼくはやや薄暗い店内でそう思った。まるで傑作小説を読み終えたときの感覚に近い。ある意味での完璧を、言葉が出てこない感動のなかに感じていた。
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ぼくは同人小説を書いているものだ。そして、文学フリマ東京という年二回行われるイベントに毎回参加している。
先日、5月21日に開催された文学フリマ東京36にも当然出店したわけだが、その一日はぼくにとってイベントの半分にすぎなかった。あくる22日は恋人との渋谷原宿を巡るデートという名の結果的な冒険に出向かなければならなかったからだ。
恋人はぼくの同人活動を表裏問わず支えてくれている。そのお礼として、靴のひとつでも買ってあげようと考えた僕は、最近自分がハマっている(べつに好みの押し付けではなく、いちおう了解はとってある)ナイキのエア・ジョーダン1というスニーカーをふたりで買いにいった。
そしてこれは、その道中で思いをはせた、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』という小説についての話でもある。
1 スニーカーの街(でもある)原宿
原宿という街は好きでも嫌いでもない。が、少なくなくとも縁がないとは思っていた。竹下通りには人生で二回しか行ったことはないし、そのどちらも楽しい思い出は作れなかった。人が多くて、趣味が合わないお店がたくさんあって、で? という感じだ。
もれなくオタクでサブカルが好きな自分だが、原宿はなんか違った。渋谷のツタヤやタワーレコードは大丈夫だし、新宿のバルト9、あるいはピカデリーも大丈夫だ。大丈夫とは? 大丈夫ということだ。
しかしながら、ぼくは5月の22日の昼、原宿の街を歩いていた。理由は前述したとおり、恋人の靴を探しにいくためだ。
なぜ原宿を巡ることになったのか、理由はシンプルで、原宿には大量に中古(新品未使用も大量にあるので、正確には二次流通品といえばいいだろうか)スニーカーなどを取り扱うお店が大量にあることを、事前に知ることができたからだ。
とある通りなんて、スニーカー屋の斜向かいがスニーカー屋で、そのさらに斜向かいもスニーカー屋だったりする。調子づいた鹿なら、スニーカー屋の屋根伝いに飛んで、青山まで行けそうなくらいだ。
もちろん定価で販売している店舗、つまりは正規店もあまただ。竹下通りを抜けた先にあるニューバランスなんて、東京で遊んでいる人間ならかなりの割合で見たことはあるんじゃないか。
そのほかにもナイキの実質的なフラッグシップ店、アトモスとそのバリエーション店、ABCマートのグランドステージ、スケッチャーズ、オニツカタイガー、ちょっと歩けばOnという最近伸びているシューズの直営店も存在している。
余談だが現在のぼくは、非常にこのOnが気になっている。
渋谷から歩きはじめたぼくと恋人は、原宿に行く前に、最近オープンしたナイキ肝いり、エア・ジョーダンの専門店であるところのWorld of Flight Tokyo Shibuyaへと赴いた。
といってもここには本当に、なかば観光目的で来ただけだった。まあ思わずTシャツは買ってしまったが。
ぼくが彼女にあげたいと思っていたエア・ジョーダン1は、ハイカットのものだ。
パッと見では分かりにくいかもしれないが、エア・ジョーダン1はハイ、ミッド、ローの3つのカットがあり、たいていのハイカットは発売されても店舗に並んでいる期間は極めて少なく、すぐに二次流通でプレミアの値段付けがされてしかるべき二次流通店へと流れていく。
それはWorld of Flight Tokyo Shibuyaでも大きくは変わらない。もちろん比較的人気の低い、売れ残ったハイカットはあったが(ぼくの住む横浜ではそれすらお目にかかれない)人気のある、見目がいいと思えるようなものには出会えなかった。
そしてたどり着いた原宿で、所せましとひしめいているスニーカー店へ足を踏み入れ、これまではネットでしか見たことのなかった、大人気カラーのエア・ジョーダン1がこれでもかと並ぶ世界を目の当たりにすることになった。
一番人気といっていい、エア・ジョーダン1の最初期のカラー「シカゴ」であったり、unionとのコラボモデルである「ストームブルー/バーシティレッド」なんかも、実物でははじめて見た。
ぼくはこのとき、とくに気になっていた「タクシー」というカラーリングに見惚れていた。あちこち歩き回ったが、この人気カラーはどこのお店にもあった。今でもほしいと思うくらい、やっぱりかっこいい靴だ。
しかしとあるカラーは見つからない。片手では収まらない数の店舗を回ったところでも、ただの一度も、本当にひとつも見当たることはなかったのだ。
そうしつつ、ぼくの脳裏にはとある小説作品の場面が思い起こされて、いったん捜索を中断しお寿司を食べているあいだ、ずっとそのことばかりを考えてしまっていた。
2 『わたしを離さないで』
この作品をご存じだろうか。ノーベル文学賞を獲得したカズオ・イシグロによる長編小説だ。
あらすじはこうだ。
以下早川書房から引用
優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設へールシャムの親友トミーやルースも「提供者」だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度……。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく。
といったものである。SFのような設定と、徐々にそれが明かされているなかで、読者にはぼんやりとしか分かっていなかった真実が浮かび上がってくるというミリテリのような側面もある作品だ。
回想形式をとっている作劇のため、主人公の内面に深く入り込むような読書体験は、次第に自分の人生がもうひとつ生まれたかのような錯覚のなか、やってくるある種悲劇的な結末に打ちひしがれることになる小説だ。しかしラストシーンの読後感は、悲観的な感情だけではなく、ただ過ぎ去っていったものたちへの愛情を深く覚えた。読む人によって感想が変わる、とてもよい小説だと思う。
この小説のなかに、「ロストコーナー」と呼ばれる土地がある。正確にはイギリスのノーフォークをあだ名しているだけなのだが、この土地は作中においてかなり重要な役割を果たす土地だ。
ノーフォークは本来「失われた土地」という意味でロストコーナーと呼ばれていたが、言葉遊びの結果作中の人物たちにとっては「なくしたものが見つかる場所=遺失物保管所」として扱われることになった。
閉鎖的な世界で生きていた彼らにとっては、なくしたものも、いつか外に出てノーフォークに行けばきっと見つかるさ、という淡い希望としてこの言葉は使われた。
ぼくは主人公のキャシーがヘールシャムの同級生の男の子と、ノーフォークの街を歩くシーンがとても好きだ。作中はもちろん、いや、自分が読んできた小説作品すべてのなかでも、かなりの上位に食い込むくらいに。
キャシーは幼いころ「Never Let Me Go」という曲のカセットテープがお気に入りだったが、それをなくしてしまう。
ティーンエージャーとなった彼女はひょんなことから親友のボーイフレンドであるトミーと、ふたりでノーフォークの街を散策し、「Never Let Me Go」のカセットテープを探すことになる。
このときの描写の幸福感たるや、どんな音楽も敵わないほどに圧巻だ。ぼくが小説というものに人生を持っていかれた原因の一端は、間違いなくこの場面に存在している。
探し物という目的がありながら、しかし手段となっているトミーとの練り歩きがあまりにも楽しく、視界が開けたような、飛び跳ねるような心地になってしまう。その時間が終わってしまわないように、カセットテープが見つからなければいいと思うほど。
ぼくは原宿の街、たったひとつのスニーカーを探してスニーカーショップを回りながら、この物語を思い出した。それはひとえに、あちこちに建ち並んでいる靴屋を訪ねている足どりが、これ以上のない幸福で彩られていたからにほかならない。
3 Nike WMNS Air Jordan 1 High OG "Starfish"
ぼくたちが探していたエア・ジョーダン1は、たったひとつのカラーリングだった。
スターフィッシュというオレンジのカラーリングは、ぼくが恋人にジョーダン1をあげようと思ったとき、きっと似合うだろうと目星をつけていた一足だった。
このカラーリングは去年発売されたもので、サイズによってはまだ定価で買えたりもするくらいには売れ残りもあるらしい。
Nike WMNS Air Jordan 1 High OG "Starfish"
しかし、恋人のサイズは公式では買えない状況になっていた。ゆえに原宿にやってきたという部分もあったわけだが、この微妙な位置づけにあるスニーカーは、むしろ原宿という街の特性上見つかりにくいものであると、さまざまな店を回った結果分かった。
ようするにスターフィッシュは、プレミアの値段を大きく付けられるわけでもなく、しかし定価ではいくらかのサイズが手に入らないという、流通の狭間にハマってしまっているカラーリングだったのだ。
ぼくたちが選んだ店が悪かったのかといえば、おそらくそんなことはない。
行った店の一部を紹介しようと思う。
https://goo.gl/maps/qvY2CTS3gcRpByCS9
Limited.Edtは壁一面がエアジョーダンまみれという、しょっぱなから度肝を抜かれる様相だった。
https://goo.gl/maps/SXQn2NxaAJ4CmBLQA
KICKS LAB.は天井の高さが印象的で、フロアの多くがジョーダン、ダンクで占められている店舗だった。よくある横向きでスニーカーが置いてあるディスプレイではなく、縦に置かれていることで情報量が多く、一望したときの満足感があった。
https://goo.gl/maps/PTpQB2zJFxgiwK6t5
フールズジャッジは古着屋なのだが、店先にジョーダンが並んでいるのを見て、ぼくは迷うことなく店に入った。店員さんも気さくに声をかけてくれて好印象だった。狭い通路のなかにところせましとアイテムが置かれている世界観は、ほかの回遊性のあるオシャレさとは一味違った異世界感があって好きだった。
https://goo.gl/maps/hhke64SvBNc2yNvJ9
BILLY'S原宿店は明るい店内に壁伝いに靴が置いてあって、どんなアイテムがあるのかがすぐに分かった。ジョーダンは控えめで、店内には女性客が多かった印象だ。
https://goo.gl/maps/7QioWbAb1xiyMB8Z7
TOKYO 23はバスケットボール関連のアイテムが揃っていて、入ってすぐにジョーダンが並んでいた。季節もののジョーダン1や新作が置いてあったりして、この店ではじめてお目にかかったものも多かった。アトモスの派生店なので定価で買えるのが嬉しいところだろう。
https://goo.gl/maps/6Bo5y9NysfmP7juU6
この旅は、SNKRDUNK HARAJUKUが大本命だったと言っていいくらい、ぼくがこの店舗に期待をしていた。実際に行ってみれば価格帯がややほかの店舗と比べると控えめになっていて、かつ種類は負けていないという強者っぷりだ。多くの店で見かけた、ぼくが気になっている「タクシー」というカラーのジョーダン1も、手に取ってその質感を確かめることができた。
![](https://assets.st-note.com/img/1685774084350-TizNQDVQEp.jpg?width=1200)
しかし、ほかの店舗も含めて、あらゆる棚を巡ってなお、並べられたエア・ジョーダン1の数々のなかに、スターフィッシュはひとつもなかった。
ただのひとつも、だ。
4 ぼくたちの「ロストコーナー」
先述したようにぼくたちは捜索を中断して昼食を摂った。
いちおう書いておくと、険悪なムードにはとくになっておらず、この先見つからなかったとしても通販では買えるわけだし、また別の靴を探したって構わないという会話もしていた。
ただ、ぼくとしてはスターフィッシュをどうにかして見つけたいと考えていた。いくらスペックが分かっているといっても、現物を見たときの印象というものはやはり手に取ってみることでしか得られない。サイズが違ってもなんでもいいから、細かい色合いや質感に触れられるようにしたかった。
きっと通販で買えばいいだけなのに、なぜここまで現物を見たいと思ったのか、本当のところはどうなのか、よく分からない。
おそらくではあるが、まず考えられる理由は絶対にプレゼントを失敗したくないという合理的な理由だろう。わずかでも思っていたのと違う、という失望感を抱きたくなかったし、抱いてほしくなかった。ただそれだけなのかもしれない。
そしてもうひとつ考えられることとしては、そう、『わたしを離さないで』と同じように、どうせなら見つからないままずっとスニーカー店を巡っていられたら、きっと幸せだろうなと思っていたから、だ。
ぼくはスニーカー、というかジョーダン1が好きになってから日が浅い。一年も経っていないくらいのぺーぺーだ。
だからこそ、原宿で見た光景は鮮烈そのもので、話に聞いていた伝説的なデザインが、圧倒的なまでに現実を伴ってそこにあった。どこに行っても刺激的で、どんな靴を見ても感動できる。初学者ゆえの優位性だと思う。
それをだれよりも共有できる人とともに歩ける。自分が覚えた感動をすぐに伝えられる。
まあ普通に考えてなんらかのハラスメントになりそうな気もするが、断っておくと恋人も靴は一般的なレベルよりも詳しく(というか仕事に関わっている)好きだ。
そうやって共通言語を増やしながら歩き回った時間は、ここ数年で一番といっていいくらい、ぼくは幸せに思えたのだ。
そして、旅の終わりはあっけなく訪れる。
https://goo.gl/maps/4t4nfAz1eobmZ4D2A
BASEMENTTOKYOという店について、ぼくたちは階段を下りていった。
ついに見つけた。半地下の店内で鎮座しているスニーカーを。
事前に調べていた店もほとんど回ってしまって、本格的に見つからないのだろうかと思っていた矢先のことだった。
運命みたいだと、ぼくの目には映った。
残念ながらこの靴のサイズは恋人のそれとは合致せず、その場で購入することはできなかった。しかしながら、実際に目にしたスターフィッシュは想像よりもずっと恋人に似合いそうに思えたし、キュートでありながら品のあるいで立ちだと思えた。
あとから聞いた話だが、ぼくがこのジョーダン1を発見した瞬間の笑顔は、今で見たこともないくらい口角が上がっていたらしい。
こうして、「ロストコーナー」の練り歩きのように、ぼくたちの旅も終わっていった。
大変残念なことだが、だからこそぼくたちは物語の続きを迎えることができるのだろう。
5 忘れものは尽きない
あの日、スターフィッシュを見つけて現物を拝んでからのことを話そう。
ものすごい勢いで疲れが出て、気が緩み、とにかくふらつきながらカフェに寄ったり散歩したりという時間を過ごした。
![](https://assets.st-note.com/img/1685774192200-I0GfRzxVyp.jpg?width=1200)
それはそれで楽しかったし、人のいない穴場なブロムナードを見つけては踊ったくらいに浮かれていた。
あとは家族へのお土産を買って帰るかという段階で、ぼくが寄ったカフェにジョーダンストアで買ったTシャツを忘れていたことに気がついた。
おいマジか。
踊っている場合か。
というわけで、原宿駅前にある素敵なカフェのロストコーナーを訪れて、Tシャツを回収したのがこの日のラストダンスとなった。ちゃんと見つかってよかった。
この日はとっても、運が良かった。
そしてなにより、ぼく(たち)は渋谷や原宿を訪れれば毎回のようにこの思い出を振り返るという未来が、ぼくにとっては素晴らしいことだと思う。
この先に、なにか大切なものを見失いそうなときが来たとして、きっとこの思い出がぼくを助けてくれるのではないか。
人生のなかで幸福なことがあった、それだけで苦しみを乗り越えるすべての力は得られないかもしれないが、それでも、諦めない理由のひとつに加えることはできるのではないか。
この日、ぼくはスターフィッシュを見つけた。Tシャツだってなくさなかった。
だからぼくはなにかを止めなくて済むのではないか。
さらなる後日談になるが、ぼくは通販を使い恋人にスターフィッシュを差し上げた。
これがまた革の質感などが柔らかくてとんでもなくいい靴だったのだが、それは置いておこう。
嬉しそうにしてくれていたので、なによりだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1685774433035-2IaPyVCJC2.jpg?width=1200)
ぼくはこの文章を、「忘れない」という文から始めた。その思いに変わりはないが、人間の心がどうなっていくかなど、だれにだって分かるわけもない。
だからこそ、ぼくはせめて、忘れ物を見つけられるような場所を少しでも多く作りたいと思う。ロストコーナーは、与えられるものではなく、自分で作るものなのだ。