メディアの自由と責任・前編(金明秀)
■イエロージャーナリズム
「プレスの自由が出版する者の権利でありうるのは、自身の中に市民の権利と公益を組み入れる場合にかぎられる」——米国のプレスの自由委員会(いわゆるハッチンス委員会)による報告書『自由で責任あるプレス』(1947年)の一節である。メディアの倫理を包括的に検討するための外部組織として、シカゴ大学学長ロバート・ハッチンスを委員長とする同会が設置されたのは1942年、まだインターネットどころかテレビすら一般的ではなかった時代のことだ。そのため、現代から振り返るといささか問題意識が素朴な部分もあるが、世界各国でメディアに対する苦情申立機関が設立される理念的な指針となったことからもわかるように、報道倫理を論じるための“原点”となった報告書である。
ハッチンス委員会は「メディアの自由が危機にさらされている」という危機意識から出発したが、その要因の一つに、「扇動的でセンセーショナルで無責任になりうる」というメディアの特性を挙げている。米国では19世紀後半、捏造スキャンダル、センセーショナリズム、好戦的愛国主義を特徴とするイエロージャーナリズムが勃興し、市民的良識を後退させたとの反省によるものだ。しかも、イエロージャーナリズムは購読者数の増加を背景に資本の集中を果たし、小新聞社を次々と淘汰していったため、言論市場における影響力は無視できないほどに成長していた。
イエロージャーナリズムの問題点を象徴するもっとも悪名高い事件は、1898年に米国とスペインの間で起こった米西戦争であろう。1890年代、スペイン領キューバ島では独立運動が活発となり、スペイン政府による弾圧が続いていた。それに対して米国内では、キューバの砂糖資源への投資を失うのではないかという危惧から、軍事的に介入すべきだとの声も上がっていた。米国政府は、ヨーロッパ諸国の政策に介入しないといったモンロー主義の立場のため、かならずしも戦争に乗り気ではなかったようだ。しかし、戦争報道が部数拡大につながるとにらんだメディア王ウィリアム・ハーストは、1897年、米国西部の有名画家フレデリック・レミントンをキューバに派遣し、弾圧の様子を描写するように委託した。
レミントンは1週間のキューバ滞在でスペイン非正規軍などによる残虐行為について十分な量の題材をスケッチし、ニューヨークジャーナル紙にそのうちのいくつかが掲載された。しかし、もっとも反響の大きかったものは、レミントンがキューバを離れてから同行記者が耳にした事件、すなわち、「アメリカ蒸気船上で女性を裸にするスペイン警察」であった。記者の文章は「アメリカの蒸気船オリベット号の上で、複数の男性スペイン人官憲がキューバからの難民女性を裸にして捜査するという非人道的な行為をおこなった。この横暴に我が国は黙っていてもいいのか!」という扇動的な内容であり、これが契機となってキューバ独立運動への軍事介入を望む義憤に満ちた世論が急騰した【図1】。
しかし、真相がどうだったかといえば、キューバ独立運動のメッセンジャーとして活動していた革命家女性が拘束され、スペインの婦人警官によって捜査されたというものであった。
そして翌1898年2月、ハバナ港に停泊していたアメリカ戦艦メイン号が原因不明の爆沈にみまわれた。そのわずか48時間後、ニューヨークジャーナル紙は原因をスペインの機雷であると断定し、スペイン軍の基地から火薬樽の雷管に送電される詳細な想像イラストを掲載した。ハーストの名前で「怒りの機雷事件。犯人を見つけた者には5万ドル!」(現在の価値で約1億5000万円)という広告まで出す念の入れようだったが、捏造記事の犯人など見つけようもないという目算だったろう。この記事に各紙が追随したことが直接的な契機となって、米国のマッキンリー大統領はモンロー主義を放棄し、同年4月、スペインに宣戦布告を行ったのである。メディアによる悪質な世論操作が戦争をも左右した教訓として、歴史に記憶される事件である。
■黄禍論
米国のイエロージャーナリズムは、日本との間にもけっして浅くはない縁がある。黄禍(おうか)論を盛んに煽ることで日米開戦の世論をかきたて、日系人を排斥政策の対象に追い込んだという歴史がそれだ。
黄禍論とは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて広く流布していた「東洋から大量の非道徳な黄色人種が押し寄せて、西洋の“文明化された”社会が侵略されてしまう」という人種主義的な空想を指す言葉だ。前述のウィリアム・ハーストは、ニューヨークジャーナルなど所有するメディア各紙を通じてアジア人を中傷し、「黄禍」の恐怖を盛んにあおったことでも知られている。
黄禍論のターゲットは、当初は、米国に先に進出した中国系であった。劇作家アーサー・ミラーの自伝小説『タイムベンド』(日本語訳未刊行)にこういうくだりがある。
==引用
ハースト系の新聞は、定期的に吹き上がっては、来るべき「黄禍」について書き立てた。チャイナタウンのギャング抗争は、中国人が血に飢えていて、卑劣で、――これは、麻薬中毒と闘うために上演されたある劇で知ったのだけど――白人女性に貪欲であることの証明だというのだ。多くの記事が、中国人が首を切り落とした相手の弁髪を誇らしげに握りしめたイラスト付きで「中国系ギャング抗争!」という巨大な黒々とした見出しを一面に載せていた。いったい、誰かひとりでもチャイナタウンに行ってみなかったのだろうかと不思議になったものだ。
==おわり(金訳)
こうした記事の影響で反中国人感情が高まり、中国人労働者の移住を禁じる「中国人排斥法」が1882年に成立したため中国系の移民人口は激減したが、それとちょうど入れ替わるように日本から北米への移民が増加した。人種主義的な黄禍論が出身国の違いを考慮するはずもなく、自然とターゲットは日系移民へと移っていった。とくに日露戦争(1904~5年)で日本が勝利を収めてからは、アジアからの軍事的侵略の脅威がリアリティを増したという事情もあり、対日黄禍論はますます激しさを加えていった。
日露戦争直後の黄禍論を支えた論者の一人に、小説家ジャック・ロンドン(1876-1916)がいる。日露戦争のころにはハースト系の新聞社サンフランシスコ・イグザミナーの特派員として日本を含む東アジア諸国を歴訪しているが、1904年に旧満州で書かれた旅行記めいたエッセイ(そのタイトルはまさに「黄禍」)は、日本人、朝鮮人、中国人への人種主義的な侮辱と警戒心に満ちており、とりわけ日本人は、西洋人が考案した近代技術を駆使しながらも、盲目的な天皇崇拝の愛国心を抱く、西洋人には翻訳不能で危険な存在として描写されている。ロンドンは当時の米国ですでに小説家として名声を得ていたため、このエッセイは現地を知る知識人が「黄禍」の恐怖に実態を与えたものとして広く引用されたという。
ロンドンが1910年に発表した短編小説「比類なき侵略」(『ジャック・ロンドン大予言』所集)も衝撃的な内容だ。日本が中国を支配下に置くことで中国は工業化を達成する。日本は怪物化した中国に逆につぶされてしまうが、世界征服をもくろむ中国はそれに飽き足らずに西洋世界になだれこむ。しかし、「中国人の驚くべき出生率と戦う術はない」ため、西洋世界は対抗することもできない。そこで米国の科学者が数種類の細菌を生物兵器として中国本土にばらまき、中国人は数年のうちに絶滅する。その後、中国は西洋世界によって植民地化され、「すばらしい、機械的で、知的で、芸術的な成果」をむかえる――そんなあらすじだ。「黄禍文学」を代表する作品の一つであるが、20世紀初頭にはこうした作品を好んで扱う出版社が少なくなかったのである。
他にも、日本人をターゲットとする黄禍報道は無数にあげることができる。たとえば、1911年に、サンフランシスコの日系人漁師のグループがメキシコのマグダレナ湾にある会社の土地賃借権を取得しようとしたときのことだ。マグダレナ湾を射撃演習に使用していた米海軍は、その事実を知って国務省(日本の外務省に相当)を通じて土地取得を妨害しようとした。しかし、どんな契約が結ばれるよりも前に、ハースト系の新聞が一連の事実を察知し、「日本政府が海軍基地を確保するための軍事侵攻を狙っている」とセンセーショナルに書き立てたのである。
マグダレナ湾をめぐるでっちあげ記事はこれにとどまらない。1912年4月1日のこと。ハースト系の新聞社ロサンゼルス・イグザミナーが、「メキシコのマグダレナ湾に、日本が巨大な植民地の建設を計画している」という内容の記事を掲載した。さらにその2日後、姉妹紙のサンフランシスコ・イグザミナー紙が、「兵士を中心とする7万5000人の日本人がすでにマグダレナ湾に入っている」と報じたのである。
ところが実際にそこにいたのは、メキシコ人が経営する缶詰工場を視察に来ていた農林省水産講習所の役員コンドウ氏と、日本の缶詰工場から雇われた研究者タカサキ氏の2人に加えて、6名の日本人労働者、ごく少数の中国人労働者、そして90数名のメキシコ人労働者だけであった。つまるところ、ただの缶詰工場であって、大量の日本人植民者など影も形もなく、兵士にいたっては一人もいなかったのである。しかし、ハースト本人が船をチャーターして現地を取材し、その事実を確認したにもかかわらず、その後もタカサキ氏の談話と称して「10万人の植民を計画している」という虚報を流すなど黄禍報道は続いた。米西戦争のときと同じく、「戦争は私が提供する」という編集方針によるものであろう。
日系移民を排斥しようとする動きはこうしたイエロージャーナリズムによって燃え盛り、1913年にはカリフォルニア州で排日土地法が成立し、土地所有が禁止された。1924年には連邦レベルで排日移民法が制定され、実質的に日本からの移民は停止されることとなった。さらに、1941年に太平洋戦争が勃発すると、ハースト系にかぎらず多くのメディアが日系人をスパイとみなす怪しげな報道を繰り返すようになった。これによる危機意識の昂進が、太平洋湾岸から日系人を強制移住させるという、歴史に残る人種差別政策につながったことは、周知の通りである。
■私欲のメディアと政府の権力
さまざまな惨禍を生み出した悪名高きイエロージャーナリズムだが、20世紀に入るとさらにイエロージャーナリズムによってメディアの大規模化と資本の集中が進んだ。ハッチンス委員会の『自由で責任あるプレス』によると、1909年時点では全米で2600を数えた日刊紙が、1945年には117紙まで減少した。しかも系列化が進み、1945年時点では日刊紙総発行部数の53.8%が少数オーナーの支配下になっていたという。
それはすなわち、(1)少数の経営者がメディアを掌握することで、多くの市民にとってはメディアで自分の意見を伝えることは難しくなったということ、(2)私欲にかられたメディアの商業主義化により、報道の歪曲、受け手の市民の権利侵害など、表現の自由と市民の利害が必ずしも一致しなくなったということを意味する。
さらに1930年代には、F・ルーズベルト大統領がラジオ放送を用いた権力強化にまい進するようになったため、市民としては少数のメディアオーナーによる扇動のみでなく、政府による世論操作とも対峙せざるをえなくなった。ハッチンス委員会が組織された背景には、メディアをめぐって民主主義が危機に瀕しているという社会状況があったのである。
こうした複雑な状況に、社会はどう立ち向かうべきか。ハッチンス委員会が出した回答は、「メディアは国家を代表とする外部の圧力から自由でなければならないが、同時に、社会に対して責任を果たさなければならない」というシンプルな基本原則であった。あるいは、「国家による介入と世論操作を防ぐためにもメディアは高い倫理性を担保として自由に政府を批判すべきだが、メディア側も劣悪な記事を自主規制すべきだ」というメッセージと解釈してもいいだろう。より具体的には、以下の5つの課題にメディアは応えなければならず、それをメディア、政府、市民が不断にチェックしなければならないということだ。
なお、( )内は筆者が各課題の内容を要約した補足説明である。
1 日々のできごとを、その意味をちゃんと理解させる文脈の中で、誠実に、包括的に、知的に説明すること(ウソをつかない)
2 説明と批評を交換する場としての役割を果たすこと(中立・公平にさまざまな意見を報じる)
3 社会を構成しているいろいろな集団のイメージをきちんと代表するように描くこと(特定の集団とくにマイノリティへのヘイト禁止)
4 社会の目標と価値を示し明らかにすること(教育的責任を自覚する)
5 日々のさまざまな情報への十分なアクセスを提供すること(特定のリーダーに忖度して議題を制限しない)
『自由で責任あるプレス』が発表された当初はメディア業界から反発もあったが、現在の価値水準からいえば、これら提言の妥当性を疑う人は、メディア業界にもそれ以外にも、そう多くはないだろう。(中編へ続く)