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凡庸な主人公
少し前、「トキワ荘の青春」のデジタルリマスター版が上映されていたので観に行った。正直に言うと私がもっくんの顔ファンなのがきっかけだった。私が生まれる半世紀も前の"あの頃"がすごい解像度で迫ってくる。デジタルリマスター版はすごい。
「トキワ荘の青春」は未来の伝説的漫画家達が住んでいた「トキワ荘」での生活感溢れる日常を描いた群像劇だ。手塚治虫や藤子不二雄、石ノ森章太郎などそうそうたるメンツの中であえて寺田ヒロオを主人公に据えているのが、私の中には無いはずの郷愁を呼び起こしている理由かと思う。彼はこの作品内では売れない漫画家として終始描かれているが、トキワ荘内ではいつでも部屋を綺麗に保ち、漫画を描くこと以外はてんでダメダメな他の住人の兄的存在であった。
そして、漫画には丁寧かつ古典的な手法で挑んでいた。(石ノ森章太郎は筆についたインクを息で吹いたりしていた。劇画が流行り出していた当時の手法としてはめっちゃ画期的だったんだと思う)作品、人柄ともに「優しすぎる」と形容される寺田ヒロオは天才にはなれなかった。そしてついには筆を折ってしまう。
wikipediaの寺田ヒロオのページを読むと、兄貴分だった「テラさん」の素敵な部分だけでなく、劇画流行に反発しすぎて後輩たちに閉口されたり、劇画の最先端だったゴルゴ13の作者のさいとうたかをに「そういうの描くのやめなさいよ」という趣旨の手紙を送りつけたりという信念が強すぎるあまりの頑固な部分が窺えた。
それでも彼はやはり優しすぎたのだと思う。老年期にかけて人との関わりを絶っていった彼は「もうこれで終わりにする」と言ってトキワ荘のメンバーを集めて同窓会を開き、その様子をビデオにおさめた。母家から離れて1人で暮らし始めた時にも繰り返しその映像を観ていたそうだ。真面目でこだわりが強いゆえに、時の流れに取り残されて動けなくなってしまったのだろう。そしてその自覚もあったから、もう外界との関わりを無くしただ死を待っていた。
奇抜な天才は即物的に社会から評価を受けられる。でもそれは奇をてらった新しい作品を作った人、その時代にとって早かった人たちであって、後世に映画を作られるとしたらその作品や制作方法やその思考の珍しさにフォーカスしたもの、作品作りに固執する様を描いたものになりがちだ。そうすると、どうしても主人公が転落するところまで描いた方が展開的に面白いし、そのぶん結果的にスリリングかつドラマチックな作品にはなりますが、郷愁を呼び起こすような共感性のある映画になるかというとそうではない。
しかし、その時代に「凡人」として扱われていた寺田ヒロオを主人公に据えることで、鑑賞者が主人公と目線を合わせることが出来る。穏やかな「テラさん」に近い視点で、ゆるやかに変わっていくトキワ荘を少しの焦燥感とともに見つめられる。だから1950年代の時間の流れ方を懐かしく見ているような感覚を与えるのではないか。「映画を鑑賞した」というよりは、観賞後に思い出が1つ増えたような感覚になる映画だった。