【連載】てくてく就労支援記② 再編

再編

 花岡さんに認められ、内職の職業指導員として一年が経った。わたしの中で少しずつではあるが、仕事への自信がついていった気がする。

 しかし先述した通り、2017年はA型事業所にとって岡山県倉敷市の閉鎖を皮切りに、全国のA型事業所が支援の在り方を変えていった。わたしの働く事業所も例外ではなかった。

 A型で行っていたDTPの内職などではとても最低賃金を払えない。民間企業でもっと安く事業を展開しているところも増えてきた。そこで、施設外就労を行う案が出てきたのだ。

 施設外就労とは、企業から業務委託を受け、ユニットを組んでその企業に出向き仕事を行うものである。わたしの働いていた事業所では、コールセンター業務とホテル客室清掃業務を受託することになった。

 上層部の中ではかなりもめたらしく、編成の中でSサビ管からKサビ管に変わった。そしてすぐに、Sサビ管は退職していった。そしてKサビ管は管理者になった。

 当時のわたしは、A型事業所の利用者が耐えうるのか懸念していた。A型事業所はいわゆる保護的就労。支援者がついており、自分のペースで仕事ができるからこそ皆いるのだ。そうした保護したいという思いと、一方で社会に出ることで経験を積んでほしいというジレンマがあった。通所者は半数ほどが辞めていった。

 わたしは施設外就労の担当となり、6名をコールセンターに、2名をホテル客室清掃に連れて行き、職業指導を行うこととなった。指導を行うのはあくまで事業所の支援員である。企業の方から仕事を教えてもらい、ある程度マスターした状態で利用者に教える。ここでもう一人の同僚が「業務水準に満たない」習得具合だとして企業から指摘を受け、退職していった。支援者に求めるスキルは単なる福祉的スキルや知識ではないという厳しさを、まざまざと実感させられた。

 そうした激動の変革を経て、施設外就労は始まった。はじめての企業人とのやりとりである。就労移行支援と違って、就労継続支援では企業とのやりとりが極端に少ない。今でこそ施設外就労が主流になったものの、当時はA型、B型ともに内職がメインであったからだ。企業とのやりとりにもコツがいることがわかったのは、とある事件をきっかけとしてであった。


 わたしはコールセンターの業務を覚え、利用者に教えながら日々をこなしていた。コールセンターでは受電業務はなく、皆データ入力を行うことになっていた。人によっては速度に波があったり、体調不良で欠席することもある。今までの内職であれば、そこまで影響は出なかった。しかし施設外就労では、遅いと周囲に迷惑をかける、休むと誰かが補填しなければならない。当たり前のことなのだが、最低賃金を稼ぐということは、それほど重みがあることなのだ。恥ずかしながらわたしはそのことを初めて痛感した。

 企業からよく「福祉は社会を知らない」という耳の痛い言葉を聞くことがある。それは「できない」を前提としているからだと思う。企業は「できる」を前提に物事を考える。「できる」人を雇用し、戦力化する。福祉はそこからこぼれ落ちた人を救う制度なのだ。
 厚生労働省が挙げるA型利用者のモデル像にもそのことがしっかり書いてある。

(具体的な利用者のイメージ)
・ 特別支援学校を卒業して就労を希望するが、一般就労するには必要な体力や職業能力が不足している
・ 一般就労していたが、体力や能力などの理由で離職した。再度、就労の機会を通して、能力等を高めたい
・ 施設を退所して就労を希望するが、一般就労するには必要な体力や職業能力が不足している

厚生労働省 社会・援護局
障害保健福祉部 障害福祉課「障害者福祉施設における就労支援の概要
」(https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11801000-Shokugyounouryokukaihatsukyoku-Soumuka/0000032713.pdf)

 わたしは、福祉を学び福祉の現場にいた人間であった。そのため、企業担当者からは奇異な目で見られていた節がある。
 そんなあるとき、企業のマネージャーからY氏から痛烈な言葉を浴びた。

「サイトウさん、自分のことを正義の味方だと思ってない?」

 当時はその言葉に反論したくなった。この人たちは「できない」んだ。そこを認めてくれと。ただ、今となってはその言葉の意図がわかる気がしている。

 正義は人によって、所属する組織や社会文化によって異なる相対的なものだ。わたしは「福祉の論理」で企業を支配しようとしていた。しかし「企業の論理」でいえば出勤時間にきて、課された業務を遂行するのは当たり前のことなのだ。「できない」で済ませてはならない話なのだ。

 それに気づいてからは、どうすればできるようになるかという「伸びしろ」を予測し、まとめ、データとして出した。無論、自ら施設外就労を辞める方も出たが、最後まで一生懸命食らいつく人もいた。その一人が花岡さんだった。花岡さんは自分でメモを取り、少しずつ着実に、成果を上げていったのだった。

 そうしてデータ入力業務開始から半年が経ったころ、施設外は新たな局面を迎える。それを書く前に、もう一つの施設外就労、ホテルの客室清掃に場面を移そう。

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