12月 冬枯れの田に立つ柿の古木かな(根元に神仏を祀る祠があったり……)
40年余り昔に住み始めた比叡山中腹の自宅の裏には、かなり広い道路の法面があります。傾斜はきついし、雑草が生えていたのですが、そこに栗や桃や柿など果樹の苗を植えてみました。のちには、それらに混じって娘が食べたあと、口から「ぷい」と飛ばした実生の枇杷の木が育ったりもしました。
が、年月を経て実を結ぶようになったのは、あとから植えたスダチと巨木に育った栗の木だけです。苗の間隔が狭すぎて、生育の早い栗だけが巨木に成長し、ほかの木を枯らしてしまったようです。で、何年か前には柿の木も枯れてしまいました。
それに比べると、ここに紹介した写真の、山に囲まれた冬枯れの田んぼに立つ樹齢500年と推定される柿の木は未だ元気そうです。なんでも幹周りが5メートル、樹高が13メートルという巨木なのです。ただ、幹の内側は炭化しているのだとか。おそらく落雷のせいだと思われます。
ところで、本文でも紹介した坪内稔典『柿日和』(岩波書店)には、
渋かろかしらねど柿の初ちぎり
という千代女の句も紹介されています。農村の結婚儀礼には、新郎新婦が床入りする際の作法を象徴する「柿の木問答」という古風なしきたりが残っているのだそうです。つまり、
「あなたの家には、柿の木がありますか」
「はい、あります」
「私が登って食ってもよいか」
「はい、どうぞ食べてください」
こういう会話のあとで初めて夫婦の「契り」が交わされたのだというのです。千代女の句の「渋かろか」「初ちぎり」には、そんな意味が隠されているわけです。
先日、かなり大量の渋柿を手に入れて、それを干し柿にするための皮むき作業をしながら、柿をめぐるあれこれに思いを寄せつつ、こんなコラムを書いてみました。おひまなときに、ご覧ください。
(「柿の古木」の写真:阪本紀生)
ぼくらの世代の人間は、ナスやキュウリから真夏の暑熱を、ミカンから冬の堀ごたつの暖かさを連想する。季節ごとの旬の食べ物が、昔は日本人の楽しみであった。それが最近は、いつでも手に入る。「結構な話」なのかもしれない。
が、今なお、わずかに残る旬の食べ物の魅力は捨てがたい。厳冬期のフグ、活きの良い春先のホタルイカやタケノコ、脂の乗った夏のハモやスズキ、なかでもみずみずしい柿の甘みは晩秋に限られる。
そういえば「桃栗3年、柿8年、柚は9年の花ざかり」――子供のころ、耳にした地口の通り、裏庭に植えた柿の木に容易に実がならなかった道理である。
ところで、坪内稔典『柿日和』(岩波書店)に、こんな話が記されている。昔は嫁入りの際に実家から柿の木の接ぎ穂を持ってきて、嫁ぎ先の庭の柿の木に接ぎ木した。その嫁はやがて子を産み、子を育て、そして生涯を終える。と、嫁ぐときに持ってきた柿の枝が伐られ、火葬の薪やお骨を拾う箸にされた。だから、芭蕉が詠んだように、
里古りて柿の木持たぬ家もなし
昔はどこの家にも柿の木があった。そして嫁ぐときに持参した柿の接ぎ穂が嫁ぎ先の木に接がれることは、男と女が結ばれることを象徴したのだという。
そんな柿の、晩秋に立つ古木の姿は、地中に張った根が、まるで空に向けて伸びたかのようだ。そのかたわらの祠には稲神が祀られ、根元には地蔵の石仏が鎮座している。
ところで、東アジア原産の柿は、甘柿なら生食、渋柿なら「さわす」か干して甘さを醸す。それは、砂糖が到来する以前の日本人にとっては貴重な果実だった。また、その渋も防水・防腐に役立った。柿の巨樹は、そんな記憶を呼び覚ましもしてくれる。
なるほど農業も、人工を加えて原始林を開いた点では「自然破壊」にほかならない。が、巨樹を「神の木」とあがめて伐採しない伝来の知恵は、その賜物でもある。それを実感したければ幹に耳をくっつければよい。小さくはあるが、遠くで水が流れるような懐かしい音が聞こえてくるであろう。
都会でも、安易には樹木を伐採しない。で、伐採すれば植樹する。そんな営みの先にだけ豊かな未来が展望できるのかもしれない。