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ひっちょうせんぼん日乗(15)「あかん、頭の肋骨が折れるやないか」

         写真:左から、力道山、シャープ兄弟、当日の新橋駅前
 
 ひさしぶりの「ひっちょうせんぼん日乗」では、70年近く昔の1954年2月に思いを馳せます。それは日本初のプロレスの本格的な国際試合が東京・蔵前国技館で開催された日のことです。
 
 この日、相撲からプロレスに転向した力道山(1924~1963年)が、柔道出身の木村政彦(1917~1993年)と組んで、カナダ出身でアメリカから来日したシャープ兄弟とのNWA世界タッグマッチ戦を戦ったのです。それを日本テレビとNHKが同時中継し、新橋駅西口広場の街頭テレビには2万人の群集が押し寄せたのでした。
 
 無論ぼくは東京になど行っていません。京都の「ひっちょうせんぼん」で、それをテレビ観戦したのです。その顛末をエッセー風の文章で紹介したいと思います。
 このとき初来日したシャープ兄弟は力道山らと5回対戦し、王座を保持したまま帰国しました。
 
 なお、力道山は、大相撲の力士出身で身長176cm、体重116kg。外国人レスラーを空手チョップで倒す姿に人気が集まったものです。
 彼の素行には、いろんな問題があったようですが、日本のプロレス界の礎を築いた功労者として「日本プロレス界の父」と呼ばれてきました。

 テレビ放送が始まったのは、ぼくが小学2年生やった1953年のことです。ただ当時、受像機の価格は14型で約18万円――大学卒の初任給7650円の2年分という高額商品やったんで、わが家では買ってもらえませんでした。

 が、隣に、ぼくの家の借家があり、そこで「北はん」と呼ばれてたおっちゃんが2、3人の職人と住んで蒲鉾造りの小さな工場を経営してはりました。そこには魚の身を骨からはずす骨抜機、その身を磨り潰す大型ミンサー、それを練り合わせる電動石臼などが置いてあったもんです。

 そんな工場を経営する北はんは無類の新しもん好きで、本放送が始まった翌年には、さっさとテレビ受像機を買い込んで、ぼくの顔を見ると、
 「今晩、力道山のプロレスがあるでぇ」
 と誘ってくれるのです。そんな日は晩ご飯をさっさと済まして、ぼくの家との間の細い通路から蒲鉾工場の2階の北はんの住処に行ったもんです。

 と、2、3人のおっちゃんたちが小さなテレビ画面を眺めているのでした。
初めて見たのは1954年の「力道山&木村政彦 対 シャープ兄弟」のタッグマッチです。以後、何度か同様の番組を見ることになりました。

 それから1年後には「力道山&東富士 対 オルテガ&バッド・カーチス」、2年後には「力道山&遠藤幸吉 対 シャープ兄弟」のタッグマッチを見た記憶があります。

 なかで、強い印象が残っているのは1956年、力道山が遠藤幸吉と組んだタッグマッチです。いつも遠藤幸吉がシャープ兄弟に攻められて負けそうになるんです。と、ぼくの両手に自然と力が入り、じわりと汗を握っているのでした。

 そんなとき、なんとか遠藤が力道山にタッチするや、黒いタイツ姿の力道山が躍り出てきて、手刀で相手の首筋を斜めに切り込む空手チョップを炸裂させます。と、あっさり勝負がひっくり返り、やんやの拍手と、こうなるわけです。

 その途端、辛抱していたオシッコが漏れそうになり、急いで階段を降り、北はん宅と共用やったぼくの家の通り庭沿いの小便器に走ったもんです。ただ、そんなとき、おっちゃんの誰かが先に場所を占領していたりします。 
 と、じょんじょろじょんじょろ、なかなか代わってくれず、しばしば漏らしそうになったもんです。

 で、突然、ぼくの真ん前で「フーッ!」という大量の気体の吹き出す大音量が響くのです。でっぷり超えた「ミミズク」という綽名のおっちゃんがおならをしたのです。そしてその後は、涼しい顔で蒲鉾工場の2階へとプロレス観戦に戻っていくのでした。

 その1年後の1957年、アメリカから「鉄人ルー・テーズ(1916~2002)」が来日して、力道山との対戦で、相手の背後から片脇に頭を潜り込ませ、相手の腰を両腕で抱えて後方へ反り投げる、なんとも危険な「バックドロップ(岩石落とし)」という技を披露しました。

 そのときのことです。突然ミミズクのおっちゃんが叫んでいわく、
 「あかん、そんなことしたら、頭の肋骨も何もかも折れてしまうやないか」
 そのときぼくは、
 「えっ、肋骨って頭にあったん?」
 そう思ったんですが、そこに居合わせたおっちゃんたちは誰も異を唱えることがありませんでした。ただ、そのときの一言が何故か今もぼくの記憶に鮮明に残っているのです。


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