4月② 村里は百花繚乱亀の鳴く(福島県郡山市の緑水園)
写真:福島県郡山市緑水園の桜とレンギョウ(Wikimediaより)
サクラが満開になったかと思うと、京都の周辺では、すでに花吹雪の時期がやってきました。もう少し長持ちしてくれてもいいような気もします。
が、この潔さが毎年の花見の楽しみの価値を高めてくれるのかも知れません。
それを江戸時代の曹洞宗の坊さんにして歌人の良寛和尚は、辞世の句に、こう詠んだのだそうです。いわく、
散る桜 残る桜も 散る桜
この句は花の季節の気温の急上昇がもたらすサクラの生態を雄弁に物語ってもいるようです。ただ、それを「特攻精神」などに読み替えた近代日本の気風だけは、よみがえらせないよう、心したいものです。
ところで、ウィーンで出会ったサクラの季節は、日本よりも花持ちがずっと良かったように思います。
これと同じことは、ワシントンのポトマック川沿いのサクラにも当てはまるという話を、当地での滞在期間の長い友人に聞いたことがあります。
が、サクラが終わっても、とくに5月の新緑の季節までの間、じつに多くの種類の花が一気に開花します。
ボクの家の、ネコならぬ「ネズミの額」のように狭小な庭でも、昨年末から花をつけてきたビオラをはじめ、ボケ、クリスマスローズ、スイセン、ムスカリ、チューリップ、キンギョソウ、ユキヤナギなどが「百花」とはいかないまでも「十花」繚乱程度に咲き誇って目を楽しませてくれます。
で、Wikimediaで東北は福島郡山の里、緑水園の百花繚乱の風景を見つけました。
それを眺めて、おそらくはすでに桜前線が到達しているだろう当地を思いながら、こんな小文を書いてみました。
普通に「情報」といえば、コンピュータやインターネットなどが連想されよう。が、奇をてらうわけではないが「花も情報」である。
むろん食べられる花もある。が、本来は色や形や香りを楽しむものであろう。という意味で「花は情報」にほかならない。
さて、ある人類学者がアフリカの原野で可憐な花を見つけて、かたわらにいたインフォーマント(情報提供者)の狩猟採集民の友人に名を訊ねた。
「あ、それは食べられないよ」
というのが返事だったという。花を「情報として愛でる」には、美しさという価値で評価する「心身の鋳型」が必要とされるのだろうか。
その鋳型を刻印された日本人は、サクラが咲くと野外に出て、その華やかさに春の到来を喜こび、盛大な宴を催す。
ただ、そのころの暖かさは、ときに花冷えに裏切られる。で、花曇りの後の驟雨は、ときにサクラを無惨に散らす。
だからこそ太古の日本人は、サクラで稲の実りを占おうと、ご馳走を用意して山遊びにおもむき、祖霊や田の神を迎える神事に重ねたのではないか。
ところで、山遊びはまた若い男女が集い、歌の掛け合いで交歓しながら、恋愛遊戯に興じる歌垣の機会でもあった。
みずからの若い生命力を謳歌する彼らに、これまた季節の移ろいによみがえった草木の誇らしい開花は、なべて愛でるに値する美しさと映ったに違いない。
実際この季節にはサクラに加えて、黄金の炎のようなレンギョウ、微妙に多様な赤を発するボケ、濃厚な甘みを実らす、文字通り「桃色」のモモなど、たくさんの植物が一斉に開花する。
そんな山里の風景のなかを、花たちの芳香に包まれて歩いていく。と、心と体の双方に快い元気がよみがえる。そして、あらゆる人との間が和んでいくような気がしてくる。
本当に「人の情に報いてくれる情報」とは、そういうものなのではなかろうか。
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