3月④ 唐の人川と見まごう瀬戸の海:内海の多島海の美しさ
写真:瀬戸内海の風景(Wikimediaより)
中学校の社会科の先生が、中国の国土の壮大さをイメージさせようと考えたのでしょうか。こんな話を授業中に耳にした、かすかな記憶があります。
「ある中国人が瀬戸内海を渡っているときに質問したんや。
『日本にもずいぶん広い川がありますね。これは何という川ですか』
揚子江――今は「長江」と呼ぶことのほうが多いようですが――の流れる中国から来ると、瀬戸内海が川に見えたみたいやね」
そんな史実があるのかどうかは知りません。ただ、日清戦争の後始末に下関にやってきた清朝の高官・李鴻章が、
「これは何という川ですか」
と質問した際に、
「瀬戸内海です」
という答を聞いて、
「日本人は、ちょっと大きい川くらいで海と呼ぶ」
とつぶやいたといわれています。
これも虚実は定かではありません。
ただ、そんな小国に敗れた中国の高官が、いわば「腹いせ」に日本を揶揄したのだとすれば、ありそうな話だという気がしないでもありません。
こんな話をしてくれた友人もいました。
「大型フェリーが、来島海峡を通過するときの迫力はすごいよ。家々の窓に手が届きそうになる」
なるほど、幅500メートル前後の海峡を幅25メートルの船が通るのだから不思議はありません。
ただ、2、3年前、ぼく自身の乗った船が、そこを通る時刻は深更になるということでした。で、船室で熟睡し、その風景は見損なったという次第。
「旅は心残り」
なのだと考えることにしました。
そんなあれこれを思い出しながら、こんなエッセーを書いてみました。
日本を代表する自然美の雄は二つ――東の富士山と西の瀬戸内海だ。
その瀬戸内海の「発見」は「19世紀の出来事」だという。このことを初めて記した西田正憲『瀬戸内海の発見』(中公新書)を読んだときは驚かされた。
それ以前は和泉灘、播磨灘、燧灘、備後灘、安芸灘、伊予灘、周防灘といった灘の集合にほかならなかったのだ。
未だ日本が250余の藩の集合だった時代の話だ。が、日本が一つの国になる時代、複数の灘の集合を一つの海と捉える必要が生じたらしい。
そういえば、シルクロードの命名で有名なドイツの地理学者リヒトホーフェンは瀬戸内海の世界的に希な「内海の多島海」の風景を絶賛した。
『武士道』の著作で有名な新渡戸稲造も「瀬戸内海は世界の宝石」と言い放っている。
不思議はない。たくさんの島のある風光明媚な海としてはエーゲ海やバルト海、カリブ海などが有名だ。
が、おびただしい数の小さな島が稠密に点在する瀬戸内海の風景に比べると、なんだか閑散としている。
それにカリブ海は「外洋の一部」だ。瀬戸内海のような静けさに恵まれているとは思えない。
そう。瀬戸内海は世界でも希な「内海の多島海」として特異な美しさが際立っている。
しかもそこには、古くから大陸との交易を始めたため、さまざまな歴史遺産のほか各種の文芸や絵画などがいっぱい現存している。
さらにタイやタコはもとより多種多様な海のグルメを提供してくれる見事な自然でもあるのだ。
ただ、高度成長期には沿岸で工業立地が進んだ。結果、美景を愛でる観光対象から後退したようだ。
しかし、もはや時代は重工業の時代ではない。
美しさを愛で、そこへの訪問や滞在を楽しむ行動が大きな経済効果を発揮する時代が到来している。
これらのことを総合して考えてみると、その全体が壮大な「(ユネスコの)世界複合遺産」となりうる資質を秘めていることに気づかされないか。
というより「ユネスコ文化遺産」に登録された富士山以上に優れた資質をはらんでいるように思えるのだが……。
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