想界創作論
少し前から架空言語界隈でセレニズムにまつわる議論があった。少し出遅れた形ではあるが、ここで想像地図の人がどういう考えで想像地図を描いているかについて、改めて書いておきたいと思う。
なお、これは想像地図の人が想像地図をどう作るかという論であり、架空世界創作はかくあるべきだという主張ではない。
想像地図の創作には3本の柱がある。第1に「田谷野解釈」、第2に「現想対称性」、第3に「住岡解釈」である。
田谷野解釈
田谷野解釈は、想像地図の作者は世界の造物主ではない、とする考えのことである。これは、想像地図世界(想界)は作者の理想を体現する世界ではなく、想像地図は旅人や科学者の立場から演繹に基づいて描くものであるという意味である。すなわち、「こっちがこうなっているのだから、そっちはこうなるはずだ」「現在がこんな結果になってるのだから、過去はこうだったはずだ」という推理の積み重ねに基づいて作るものであって、作者の嗜好や意向を反映してはならない、という原則である。すなわち、「推理を重ねた結果として出てきたものが作者の嗜好に反するものが出てきたとしても、嗜好よりも推理を優先する」という意味である。
ただし、全く仮定条件ゼロでは架空地図を描くことができないため、完璧に作者の嗜好の反映をゼロにするのは難しいが、それでも限りなくゼロに近づけると言うことが目標となる。
現想対称性
現想対称性は、想界にも想像地図作者がいて、彼または彼女は日本(というか地球)を想像地図として描いているという裏設定である。だから、この裏設定を成り立たせるためには、想界は「彼または彼女が日本を正しく思いつけるような世界」でなければならない。
しばしば誤解を受けることだが、現想対称性は「何でも現実に馬鹿正直にする」という趣旨ではない。想界が「彼または彼女が日本を正しく思いつけるような世界」であることは、必ずしも想界が現実に馬鹿正直になることを意味しない。城栄の政治体制は日本とは異なるものだし、都道府県も日本より細かく分かれているため数が多い。
逆に、新幹線の開業によって並行在来線が経営分離されるのは日本と同じである。これは、始めから現実を馬鹿正直に真似たものではなく、想界に並行在来線の経営分離があるかについて推論を重ねて出てきた結論である。地図上にはただ経営分離された後の第3セクター鉄道の線が引かれているだけなので、現実を馬鹿正直に真似ているように見えてしまうことは否定できないが。
※現想対称性は向こうの作者の性別を規定しないため、彼または彼女という性別を特定しない3人称を選んでいる
住岡解釈
住岡解釈は、「想界は、観測可能な宇宙の範囲外に実在する」という解釈である。もし宇宙が無限に広く、星が無限にあるのであれば、地形の配置パターンも無限に存在しうる。地形の配置パターンが無限に存在するなら、その中には、想界の地形と偶然一致するような星もあるだろう。
すなわち、住岡解釈は、想界を架空とみなすのではなく、多元宇宙仮説を物理学的根拠として「観測不能だが実在」と見なす解釈なのである。
3本の柱とリアリティ
さて、想像地図の人は、現想対称性を守ることが想像地図のリアリティを向上させると考えている。想界に想像地図作者がいて、彼または彼女は日本(というか地球)を想像地図として描いているという裏設定を成り立たせるためには、想界は「彼または彼女が日本を正しく思いつけるような世界」でなければならないわけだが、そのためには彼または彼女が現実世界の複雑性を思いつける程度の複雑性を想界が持っていなければならないからである。
架空世界のリアリティの基準をアプリオリ性に求めたのがセレニズムなのだとすれば、ソーチズムは現想対称性に求めたもの、ということになるだろうか。
3本の柱の起源
田谷野解釈も現想対称性も住岡解釈も、想像地図を描き始めた2003年から完全な形で確立されていたかと言えば、かなり微妙だ。
田谷野解釈の起源
作者が神ではなく旅人の立場だという考え自体は初期から確立されていたが、作者の嗜好を完全に排除できていたかというと微妙だ。ところが、描画が進む中で、演繹を優先し嗜好を排除した方がより「リアル」と思えるいう状況が生じたり、あるいは嗜好が排除できていない部分で問題が起こるという状況が生じたりするようになってきた。そこで次第に田谷野解釈は厳格化されていった。完全な形で田谷野解釈が適用されるようになったのは、早くとも2015年だろう。
現想対称性の起源
2003年の想像地図の描画開始から2009年までの間は、想界は日本のどこかにあるという設定だった。そのため、想界に想像地図作者がいて、彼または彼女は日本(というか地球)を想像地図として描いているという裏設定は、成り立ちようがなかった。
2010年になり、想界が架空惑星だと考えられるようになってから、現想対称性は意識されるようになった。最初はただ漠然と「向こうにも想像地図作者がいて、彼または彼女は日本(というか地球)を想像地図として描いている」という考えがあるだけだったが、想像地図の設定が厳密化していくのに従って、「向こうにも想像地図作者がいて、彼または彼女は日本(というか地球)を想像地図として描いているという設定を成り立たせるためには、想界はどうなっている必要があるか」という哲学的な問いが生じるようになっていった。
住岡解釈の起源
架空の何かを創りだしたとき、現実の世界に何らかの改変を必要とするのであれば、その地域の地図を出せばその架空物の存在は否定されてしまう。当たり前の話だが、東京を舞台とする架空鉄道は、現実の東京の地図には載っていない。だから東京の地図を出せばその架空鉄道の存在は否定される。
が、宇宙の彼方ならどうか。宇宙の彼方へ冒険した人は地球上に存在しないのだから、宇宙の彼方を舞台とする架空物の存在を否定することは原理的に不可能である。
住岡解釈は、想界が架空の存在ではなく、もしかするとこの宇宙のどこかに本当にあるかもしれないと思わせる効能があったと言える。
しかし、宇宙の彼方にあるかもしれないと思えることよりも、身近な東京を舞台とした架空鉄道の方がリアルだと感じる人もいるようで、これは人それぞれかもしれない。
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