今日のガザ、明日のアメリカ 『シビル・ウォー』【勝手に寄稿】
昨日、こちらの講演会をオンラインで視聴した。ガザのこれまでの状況や現在の情勢、他国に住む私たちができることなど、短い時間の中で大切なことをできるだけ詰め込んでくれた。
講演会の中で、ガザが明らかにしたことのひとつとして「発信したものが届いていない」と岡教授は語った。
これまで研究し、実際に見てきたものを大量に書き留めて出版したにもかかわらず、日本の教育現場や市井の人々に届いていないことを、この1年で痛感したそうだ。
発信してもそれは人々に届かない。それは届け方がどうとかいう話ではすでになくなっていると思う。みんな受け取らない。メディアからの情報や学問を受け止める時間も、心も、体力もない。
岡教授が語ったことは、昨日の今日で鑑賞した映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』に重なった。
ジャーナリズムや学問などの地位・価値が地に堕ち、フィルターバブルに包まれ、分断を極めた末の大国が描かれていた。
本作は内戦状態となったアメリカで、追い詰められた大統領に接触するべくワシントンD.Cを目指す4人のジャーナリストたちが主人公。旅の途中で目撃する、恐ろしくてバカバカしい戦闘がダイナミックに映されている。
しかし、戦闘シーンは一旦置いておいて、本作で描かれた「ジャーナリズムのパワーとその歪み」に注目したい。
4人の言葉や眼差し、カメラレンズには、どんなものでも暴いて明らかにしてしまうパワー(第3者的眼差しや冷徹さ、暴力性)がある。彼女たちはそれを「強大な何かへのカウンター」として使用してきたはずだ。
しかし、内戦状態となり武力がカウンターとなっている今、ジャーナリズムのパワーは行き場を失っている。受け取り手である市民の態度が変わったからなのか、権力におもねってしまったからなのか、ジャーナリズムが堕落し、そのパワーが歪んでいる。
劇中でベテランカメラマンの女性の顔がアップになり、彼女の顔の周りがぼやけたようなカットが何度もある(彼女のみがフォーカスされているような感じ)。それは彼女の中にあるジャーナリズムが揺らぐと発動する演出だった。あのピントが自身にぴったりと合い、周囲がぼやけていく感覚はパワーそのものであり、彼女自身にも向けられているし、そのパワーから逃れることはできないのだと思う。
ラストシーン間際では、彼女からジャーナリズムとは何かを学び続け、共に旅をしたもう一人の若いカメラマンにパワーが移っていた。そして、エンドロールと共に彼女が撮ったであろう輝かしい写真が浮かび上がっている。
反政府軍に帯同していたジャーナリストの男性が、ホワイトハウス付近での激戦の最中に、自分がこの戦闘で収めてきた衝撃的な映像を自慢していた。また、主人公たちと共に旅をしていた男性記者も、パワーに当てられて「勃起する」とまで発言していた。
これが歪みだと思う。どれだけすごいものが撮れたのか、話も通じなくなってしまった国民が喜ぶような、特定の誰かの快楽のための何かが撮れたのか。一方で、撮ることや、そのパワーに執着し、その先の報道や伝えるという行動への言及はない。
武力によって体制を崩壊させることに成功したものの、劇中のアメリカに明るい未来が訪れるとは思えない。そこでは、カウンターとしてのジャーナリズムは機能しておらず、見たくないものをシャットアウトしていく人々と、有無を言わさず暴力を振りかざす人間の本能が蔓延しているからだ。
情報は届かなければ、受け取らなければ意味がなくなってしまうのだ。