労働について思うこと(印象論)

みなさま、ごきげんよう。

実際にはこんな時代にご機嫌な人なんているわけもなく、いたとしてもそんな人たちはこんなブログを見に来るはずはないのですが。

とはいえ、いちども働いたことのない人間が(今だって現在進行系で、自分に課せられたはずのあらゆる苦役から逃避して、インタネッツに駄文を書き込んでいます)労働について語ろうとする際には、それにふさわしいだけのキャラクタをまとう必要があるわけです。

というわけで、本記事内容に限り、私はインターネットお嬢様なわけなのですわ。温室暮らしで一般労働者の苦役なんて分からないのですわ。だから無責任に発言致しますわ^~~~~

さてさて、書き込みにくいので文体は戻します。

つい先日、Twitterで私のタイムラインにあるツイートが流れてきました。
それは、動く絵本のような形式で、核家族世帯の父親が変顔を披露するシーンから始まり、末尾では労働に追われて落ち込んでいる父親に息子が同じように変顔をする、するとたちまち家庭は笑顔に包まれるといったストーリーラインで構成されていました。
と、まぁ、大変温かみのあるストーリーなわけで、ケチのつけようはもちろん無いわけなんですけれども。一点だけ、気づきを得たのでそれを言語化していこうかなと思います。

それは端的に言ってしまえば、「現代において労働ってすっかり苦役の対象になってしまったなぁ」という感想です。

もちろん、今現在社会・政治のレベルで課題になっている労働のあれこれ、それと個々人の労働に対する不満を否定するわけではありませんが(というか、私だって現在サボっているわけで……)、自分も含めて、温かみのある・救いの場としてのプライベート/辛くて致し方のない・苦痛な場としての労働という二項対立が、すごく簡単に引き受けられてしまう土壌が完成されてしまっているなぁと思うわけです。

つまり、労働が全く人生から切り離されている!

ワーク・ライフ・バランスなんて語も全くそうで、既に現代では労働と生活との現場が渾然一体となった状態が想定不可能になっているのです。
もちろん、建前には労働における自己効用感とか、そういった形での接続回路は残されているわけですが……どれだけの人間がそれを信じられるのでしょうね。

また、管見の限り、テレビ番組その他あらゆるメディア媒体で、こうした労働にまつわる自己効用感といったものは、あまり近年表象されていないように思われます。あるいは、見えていないのかしら。
というか、労働にかかわる自己効用感みたいなものは、極めてプロフェッショナルな水準のものばかりでしかメディアで表象されておらず(医療ドラマとか、特にそんな感じ)、ごくポピュラーな水準での労働にまつわる共感性は、苦しい仕事を少しでも低減する方法論!みたいなところに限定されていないかしら、と思うわけです。

実はこれ、ビジネス情報商材とかも同様で、ああいうのがチラつかせてくるのは「いかに仕事が上手に・楽しくなるか」ではなく「いかに金を稼いで労働から逃げ出せるか」なわけです。
とまれ、自己の生活と労働というものはすっかり切り離され、とりわけ後者はほとんど前提として「よくないもの」のアレゴリーとして使われてばっかりです。

とはいえ、こうした労働と生活との切断を誰が主導したのか、といえば時代の要請としか言うことはできないような気もします。じっさい、労働現場から生活の様相が切り離されれば、仕事の領分はますますビジネスへの傾倒に注力できるわけですし、労働者側もすでに仕事によって自己肯定することを諦めて、金を稼ぐ場所として致し方なく労働を選ぶといった認識も深まっているのではないでしょうか。(逆に、「アットホームな職場です」は生活の領分を食い荒らすことの比喩と化しています。)
最後に残ったのは、育休の話と障害者雇用の話だけです。(それすら、建前を守れていないというのは記憶に新しいですけれど)

というわけで、「成功」を目標とするバリバリのビジネスマンが、一般用語ではなくビジネス用語みたいなもので会話をする必然性も、こんなところにあるんじゃないかなと思った次第でした。専門用語で内輪会話をするのは、生活から切り離された「成功」モデルしか見ていないからだ!(偏見と私怨)

既に、「縁」のあらゆる形式が解体された現代において、仕事と生活とを無理なく両立することができる労働形態ってあり得るんでしょうかね。
場末のカフェとかバーとかをだらだらと経営できたらいいな。


あ~あ、早くアーティフィシャル・インテリジェンスとロボットとに労働が全部とられてしまって、人間滅んでしまいませんこと~~~~~?????????????????

とっぴんぱらりのぷう