雨の中帰ってきて泣いちゃった
今日は、雨が降る前にコンビニ行って帰ってこようとしたけれど、雨に降られてしまいずぶ濡れになって帰ってきました。
こう気圧が低いと、心もしんどくなるものです。誇張なしで、毎日布団の中で変な鳴き声あげているだけの人生なので、いわんや、普通の生活している人をや、といった具合です。
ところで、最近夢の中でギャン泣きしました。最後にリアルギャン泣きをキメたのは、酒の飲みすぎで(電気ブランをストレートで720ml瓶半分空けました)公衆の面前で殺してくれ~~~って泣いたときです。
閑話休題、人間の脳とは面白いもので、夢の中での身体再現にもかかわらず、ギャン泣きする夢を見て、結構スッキリしました。泣く、という行為が身体の機構としてリラックス効果をもたらすことは、科学的に実証されていたりしますが、それが実際の体験でなくとも、心理的負荷を低減してくれるのは意外な体験でした。
さて、みなさまは最近泣いていらっしゃいますでしょうか。私は全然です。というか、大の大人が泣いたらみっともない、という規範意識が自然と身についているのではないかとお察しします。
ときに、人間社会とは究極的に身体資本の切り売りだと言えます。それは、第N次産業だとかそういうけいざいな話ではなくて、単純に、何をするにしたって自己の身体の操作には常に社会的な制約があって、その制約の中でしか自己身体の自由が保証されていない、という意味でそう言いたいのです。
とりわけ、家事ですら賃換算しようとする現代社会のフレームにおいては、身体を資本とみなす視座というものは結構普遍的なんじゃないかなと邪推しております。
先の話に戻ります。みなさま、最近泣いていらっしゃいますか。というか、自分の感情表現を抑制せず過ごせていらっしゃいますでしょうか。
身体を資本として、社会に投資する際に切り捨てられてしまうのは、こういう結構根源的な身体の自由なんじゃないか、と思うことがあります。
自己身体を統御することで、社会の便益に与し、報酬をもらう。これ自体はふつうのことなのかもしれませんが、仕事の領域とプライベートな領域との境界線が曖昧な昨今(例えば、病気になったりして仕事を休むことはどちらの領分なのでしょうね)、この身体の統御の責任が不必要に拡大していないかしら、と疑問です。
まして、身体改造が即ち社会的な価値を生み出す、と言わんばかりの言説には(筋肉がうつを吹き飛ばす! とか)、いまひとつ共感できないですねーと思う毎日なのでした。
身体の価値は社会的な便益の前に、自己の精神の保全のためにあるのだとおもいます。どっとはらい。