フォロワーから本が届いたので読んだ:仲正昌樹「〈リア充〉幻想――真実があるということの思い込み――」(2010年3月)

0.ごあいさつ

みなさま、ごきげんよう。表題の通り、誕生日祝としてフォロワーから本が届いたので感想がてらいろいろ書こうと思いますわ。
その他、過ぎし2月上旬に、サメシャチのでけ~ぬいぐるみが合計2つと、にしきあなごの形をしたマドラーが5本届いておりますの。重ね重ね感謝申し上げます。家が水族館です。
また、ここ数週間仕上げるべき原稿の執筆をサボっているので、あいも変わらず文字書きのリハビリ記事であることをお断り致しますわ。お見苦しいことご容赦くださいませね。

1.仲正昌樹「〈リア充〉幻想――真実があるということの思い込み――」の第一印象について

よみづらいですわ~~~~~~!!!!!!!!!!

というのも、対談形式といった体裁や使用されている語彙の問題ではなく、対談の中で通底している問題意識が、(ところどころ直接は明言されているものの)多くの場合示唆に留まっているなぁという感想を抱かざるを得なかったからです。
ことに、仲正氏の愚痴の部分は単に読みづらいばかりか、やや本筋から脱線することもあり、なんだろうと思う部分がありました。
尤も、対談形式という方法にて、編集を施しながらも、会話の不規則性の方が勝ってしまった部分もあるということでしょうか。やむを得ないところもありますかね。
私はそういう部分は引っかからずに「ふ~ん」って言ってすらすら読んでしまうので、まぁいっかという感じです。(不真面目な読者だ)

そうそう、仲正昌樹氏の『〈ジャック・デリダ〉入門講義』は大変面白く拝読しました。こちらもおすすめ(どの層に?)です。(ダイマ)
『ドゥルーズ・ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』は積読中、早く読まなきゃなぁ。

閑話休題、とまれ本書の読み筋は一貫しており、主にタイトル通り「幻想」に他ならないはずの、「真実があるということの思い込み」からいかに脱却が可能であるか、あるいは不可能ながらもいかなる態度を取るべきなのかという問題が通底しています。
加えて、いかなる「幻想」を生成し/留保し、その「幻想」と生活とをいかに擦り合わせていくのか、という方略の追究によってルサンチマンによって架構された「リア充〈幻想〉」を解体していく回路を示していると思われます。
(そういう意味でタイトルの「リア充〈幻想〉」において、幻想というワードがカッコで覆われている必然性もあるのでしょう。つまり、〈幻想〉とは個別具体的なものに他ならない、という限定的な意味付けかと思われます。本記事では、微妙なニュアンスまで拾いきれてはいないので、あくまで一般名詞的に使っていきますが……)

なんか上でゴチャゴチャ言いましたが、要するに、「リア充」をはじめとする肯定的コミュニティ/「オタク」をはじめとする否定的コミュニティの総体をついつい想定していまいがちだけれども、その実態は結局個別具体的で、「幻想」とぜんぜん整合することはない。だから、思い込みで恨みつらみを溜めるようなことはやめようね、っていう(あまりにも)普遍的な諫言が述べられている本なのかなって感想です。

もっとも、こうした「幻想」を煽っているのはむしろ社会の「コミュニケーション至上主義」であり、この状況は今(2022/02/26現在)も変わっていないだろうと思います。本来個別具体的でしかない、人と人とのコミュニケーションを数値化して測ろうとする、あるいは、「ウチ」のコミュニケーション方法を習得することを至上命題とする傾向は、なかなか解消されていないようです。

ただし、その根源には「コミュニティ帰属意識」あるいはそれの動機でもある「孤独」の問題があり、むしろここへの言及が個人的には興味深く感じられました。

2.現代のコミュニティ帰属意識

先んじて断っておきますが、仲正昌樹「〈リア充〉幻想――真実があるということの思い込み――」は2010年3月に初版発行が行われた本です。
そのため、当書から得た示唆をすなわち現代の問題に結びつけることは、適切ではないかもしれません。ことに、テクノロジーについて、本の中でしばしば登場するSNSの話題については、10年で状況が大きく様変わりしています。
加えて、当書は「秋葉原通り魔事件」の影響から出版されたことが示されています。つまり、これから位置づけようとする文脈の置き換えは、恣意的であるということを宣言しておきます。ご容赦。

さてさて、先に「コミュニティ帰属意識」に興味深い示唆を得たということを述べました。
ことに、「コミュニケーション至上主義」傾向が随分と前から社会的な価値規範として維持されていること、その反動として「孤独」が顕在化してしまうことは、現代においても想像に難くない事態だと思われます。
他方、こうした「コミュニケーション至上主義」への批判は常に行われてきました。また現在では、SNSの発展および多様化に加え、感染症の流行によって否が応でも他人との接触が制限される、という特殊な事情に支えられて、リアルコミュニケーションの価値を相対化しようという機運自体は以前よりは高まっているのかしらという感想をもちます。

ところで、当書では、ルサンチマン的な「幻想」から身を回避するための方略として、ゆるやかなコミュニティ所属の実感(尤もそれも幻想なんだけれども……)を得ることが示されていたかと思われます。その具体例として「メイド喫茶探訪」の章段があります。共同幻想によって人と人とが緩やかにつながっていく場、それはある種人間関係の本質と通底してさえいます。(友人、恋人、家族でさえ共同幻想の共有によって紐帯し得ているに他ならない。人は人を知悉することは出来ないので)

はて現在の状況に翻ってみて、SNSの発展によって、自治的で閉鎖的で心の安寧を保つための、「リアルの友人とも恋人とも異なる関係性」を取り結ぶ場は作りやすくなっていると言えましょう。
じゃあ各コミュニティの共同幻想はどうなっているのかしら。

コミュニティとは共同幻想の共有によって成り立っていると言えますが、この際、ここに打ち立てられる「幻想」は普遍的な世界との差分によって生じると言えるでしょう。つまり、オルタナティブな世界を架構することで、コミュニティというものは形成されていく。具体的に言えば、「〇〇が好きな人の集い」という肯定的で友好的なコミュニティであったとしても、その反転作用としての「〇〇に興味がない・嫌いな人たち」の存在を逆説的に生成してしまうでしょう。

そして、今現在インターネットにおける上手な立ち回りとは、自分の不快な情報を入れないこととなっています。人々はミュート・ブロック・リスト管理を上手に使い、自分の好む情報が流れてくるタイムラインを生成しています。「○○さんがいいねしました」の表示を要らない機能だと思い、パーソナライズ機能をありがたがる心性は、私にもないとは言えません。

こうした状況の中で、ネットコミュニティの共同幻想は(私見ですが)年々先鋭化していると言いたくなることが多くなってきました。「〇〇が好きな人の集い」では、「○○」に対する否定的メッセージの送信はご法度であり、コミュニティでの居場所を奪われます。でも、人ってそんなに恒常的に何かを肯定し続けることってできるのかしら。

昨今のパーソナライズ傾向は、人の変化をよしとすることはありません。むしろ、コミュニティという場はコミュニティの価値観を反復生産し、強化する場として機能しているようです。
もちろん、人は孤独では生きられません。ただ、コロニーのように各コミュニティが点在する、特に、望んで他者と距離を取りたがる(あるいは、積極的に外部と対立することによって内部の結束を強めようとする)傾向のある現在のネットコミュニティのありようを前提とするならば、多国籍的に、さまざまなコミュニティに足を踏み入れることが重要なのではないでしょうか。(もちろん、冒険の必要はないとは思いますが……)

ことに、上記の私見を当書の問題意識に差し戻してみるならば、当書では、ひとつのコミュニティ(掲示板)に拘泥するしかなかった状況と、しかし一方で、オタクコミュニティからの疎外感が拭いきれなかったことが、「孤独」感へとつながったのではないかと述べられています。
ひとつのコミュニティにのめり込むこと、その中で反動的な感情を増幅させてしまうことへの警鐘が述べられていたとするならば、現代の蛸壺化したコミュニティのありようは、テクノロジーによる多様な人間同士の関係性の取結び方の拡充とは裏腹に、パーソナライズの追求によってますます先鋭化の道を突き進んでいるようです。

つまり、個人の「孤独」の慰撫は容易になったものの、コミュニティ単位で「孤独」になっていく、共同幻想の共有回路が断たれていく事態が顕在化しているのではないでしょうか。

3.おわりに

さてはて、かなり個人的な興味に引きつけて読んでしまいましたが、結局は仲正昌樹「〈リア充〉幻想――真実があるということの思い込み――」はよい本であったと思われます。
実はこの本、2018年10月に第二版が発行されています。サブタイトルにもなっている「真実があるということの思い込み」という言葉が、別の文脈、本記事では強く言及していませんが、「真実」をとりまくインターネットコミュニティのありようへの関心という文脈へと、接続回路を容易に開いている(かのように見える)のだと思われます。げんに、この記事の射程もこうしたネットコミュニティへと差し向けられています。

あけすけな言い方ですが、今のネットコミュニティひとつひとつに、自分のコミュニティの価値観を相対化する方法は無いと思っています。コミュニティに自浄作用があることが望ましいですが、そもそもネットの構造がパーソナライズ志向に他ならないのであれば、人の努力でなんとかできる範囲は限られています。

むしろ気を配るべきは、こうした自己化した・消化されきったと思っていたコミュニティの中で、突然他者(批判意見・否定意見)が顕在化した場合の心の動きだと思われます。

自己は思っているよりも自己ではありません。況や他人をや。結局は「他者尊重」という耳障りのよい普遍的なことばに回帰していくようですが、「他者尊重」とは他者の存在を無視することではない、ということは最後に強調して述べておきたいと思う次第でした。

おわぢ