雑感
0.まえがき
平素、2年もブログを放置していたらしい。とはいうものの、私はこれで金を稼いでいるわけでもないし、書きたくなったら書けばいいのだと思う。全然批評的ではない、趣味の内容の記事も書いている。正しくここは「note」に他ならないのだから
するとまた、何故長らく放置していたブログをまた書いているのかと言えば、書きたいからである。私の——正確には、私の言葉の——主体性から自然と溢れ出るものが、文章である。無論、主に私が普段ぺちゃくちゃ管を巻いている場、Twitterのサービスへの不信や、そもそもの私の生活環境の変化なども影響はしているはずだけれども。
とまれ、このブログの更新自体には何の意味もないし、書かれた文章にも何の価値もないだろう。書くことの欲求、それ自体を満たすために私は書いている
1.「良く生きる」ことの圧力
前置きはこれくらいにして、書きたかったことを書く。
私は今、ぽつぽつと社会復帰をしようとしている。週に少しのアルバイトをして、こつこつと心身を現代社会に馴染ませようとしている。が、今のところ、上手くはいっていない。
仔細は省くが、私は「良く生きる」ことを目指す人々と関わる機会がある。それは別に、怪しいセミナーや新興宗教の集まりというわけではない。単に、関わる人から「良く生きよう」とする匂いを嗅ぎ取っているだけかもしれない。あるいは、その感じ方も錯覚かもしれないが……
しかし、少なくとも、私は「良く生きる」ことへ迎合することが上手くはないようである。拒否していると言ってもよい。それが、結果として私自身の社会への不適応の原因になっているのだろう。
「良く生きる」こと、例えば、毎日研鑽を行い自己実現に突き進むこと。あるいは、多くの収入を得て自らの欲求を満たすこと。あるいは……
「良く生きる」ことの内実は、ひとそれぞれにあり、その手段も多種多様であろう。あるいは、「良く生きる」ために自ら命を断つような場合があったとして、私はそのことを矛盾だとは思わない。
他方で、「良く生きる」ことへの欲求が逆照射するものは、現状の人生への不満である。しかし、人々はそれほどまでに飢餓感に苛まれているものなのだろうか?
私は今、メンタルの不調を引き摺っているためか、自己の(比較的)直接的な欲求にしか関心を強く持てずにいる。極端な言い方をすれば、ただ安心して眠りたいのである。それは、自分の生を肯定するための手段ではない。ただ、眠りたいからこそ眠りたい。
人の欲求は際限無い。それは、モノの価値付けのメカニズムを俯瞰してみればわかる。モノの価値は、それを所有したいという欲求によって高められていく。そして、価値付けられたものは人の欲求の対象となる。このポジティブな運動性はそのモノの価値の臨界点に到達するまで、あるいは、モノの価値が過剰に加熱し自己崩壊を起こすまで続く。
ここでのモノは実在する物質とは限らない。サービスの一形態、希少な体験、未来への希望……ありとあらゆるものがマネタイズされる現代において、欲求と価値付けの運動性から完全に逃れることは不可能とも言えるだろう。
翻って、「良く生きる」ことに立ち返ってみる。華々しい成功、あるいは安寧の人生……「良く生きる」ことは多種多様の形を取り得ることはさきに述べた。ところで、この「良く生きる」ことへの欲求は、「良く生きる」ことを過剰に価値付けてはいないだろうか?
おそらく、「良く生きる」ことの内実がひとそれぞれであることは、相対化が普遍化した現代社会において容易く了解できるだろう。
他方で、「良く生きる」こと、それ自体を相対化する視座はポピュラーとは言い難い。「足るを知る」、「ありのままの自分を肯定する」などといった心構えも、ゆくゆくは「良く生きる」ためのストラテジーとして提案されるに過ぎない。
2.克己の機運に逆らうために
克己とは、己の欲望を抑圧する意である。原義から離れてみても、己に克つと書くこの熟語からは、自己変革のニュアンスを感じ取ることもできよう。
自己変革、欲望の抑圧、これらは両極端にありながら、その両者が「よく生きる」ことを目的とするストラテジーの代表格と言っていいだろう。「よく生きる」ためには、己に克つ必要がある?
ところで、「よく生きる」とは、誰のための欲求なのか。理想化された人生は、己を犠牲にすることでしか成し得ないものなのか。ここに、「よく生きる」という目的意識の欺瞞が見えてくる。すなわち、幸せでないなら生きていてはいけないのか、という問いである。
レヴィ=ストロースの議論を細かく引用する必要はなく、人と人との係累は贈与と返済によって成り立っていることは、経験的に了解できるであろう。例えば、友人関係の解消は、溜まりきった負債による破産(不満の爆発による喧嘩別れ)か、連絡手段の途絶による踏み倒しによる。謂わば、友人関係とは貸しと借りを気楽に作り合える関係と言い換えられる(故に多少の無礼や指摘が許される)。
無論、この関係の取り結びは友人関係に限定されるものではない。あらゆる関係は多かれ少なかれ贈与と返済の意識によって繋がれている。こうしたネットワークの中で、個人の主観的な幸不幸が人の存在価値を決定づけ得るのだろうか。
人の存在価値は、己に克つことで証明するものではない。流動的にミクロなコミュニティが出来上がり、また、解散する。その運動性の中に自己が登記され、また抹消され、また登記され……自己の幸不幸とは関係なく、ただ、在ることによって諸々の関係の中に揺蕩うこと。それが、存在価値に他ならないはずだ。
ここに来て、ようやく「人は生まれてきたことに意味がある」という言葉の内実が充填される。天命を持つことではない。ただ在るという事実と、コミュニティのメカニズムにおいて、生まれてきたことに意味があるのだ。本人の幸不幸、あるいは人生の価値付けとは関係なく。
3.おわりに
結論から言えば、生きることを価値付けしようとする運動性は、生産性の論理である。個々人の適性を決定づけ、生産性に寄与する関係に配属しようとする運動性。「よく生きる」ことへの啓蒙は、「よく生きる」こと自体をブランド化するための方便である。言い換えれば、自己の人生への不足を植え付ける手段に他ならない。
別に、「よく生きる」ことをしなくても生きていけるのである。そもそも、自己の意思や意識を超えて、何かをすることは不可能である。
故に、「よく生きる」ことのブランディングは、様々なアプローチで克己を促し、自己の制御不能な領域でパターン化された「よく生きる」ストラテジーを啓蒙しようという形式になる。
生き方を、あるいは自己の人生の価値付けを行わないこと。それが、ありとあらゆるものをブランディングする現代社会において、人生に向き合う疲労から逃れる術なのだと思う。
故に、したいようにできることはしたいようにする。そういう思いで、この駄文は書き綴られている。
おわり。