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第1章 2:一切皆苦

「全ては苦しい」だけではない

今のように自由に文章を書くとき、一番に困るのが書き出しです。
手紙やメールであれば『拝啓』や『時節の候』といった定型句が使えますが、そうでない場合は何から書けばよいのか、その生み出しに苦しみます。

…という「苦しみ」をネタにして、今回は『一切皆苦』を読み解いていきます。

お釈迦様の説いた三相の一つが『苦』(dukkha)です。
日本語では『一切皆苦』として伝わっています。

漢字として『苦』(くるしい)という文字を当てはめた古代の方の才覚には本当に頭が下がりますね。

さて、私達もよく聞く四字熟語、その意味は「すべては苦しい」ということで理解されていることでしょう。

お釈迦様も生きることは苦しいことだ、として、更にこの『苦』を4つの種類に分け、人間が生涯のうちに必ず味わうことになる苦しみとして説きました。
それが『四苦』(しく)です。
これについても紹介しておきます。なお、よくお話に出る順番からあえて少しずらして紹介します。

『四苦』について

1.老苦

生まれた生命は必ず老います。
若い頃にできたことはできなくなっていきます。
自然と目がよく見えなくなったり、元気が出にくくなったり、物覚えが悪くなったり…。
昔できたことができなくなるから苦しむことになります。

2.病苦

一切の病もなく生きることは難しいでしょう。
風邪やインフルエンザならともかく、(お釈迦様のいた時代よりは飛躍的に進歩したものの)治療の難しい病もまだまだ存在します。
逆に大ケガを負うリスクは、もしかしたら昔より増したかもしれません。
転んだときに、ただの地面ではなくアスファルトだったらより痛いでしょう。
私も小学生の頃にダンプカーに撥ねられて大ケガを負いました。
大事には至りませんでしたが、ケガが治るまでの間は体が一切動きませんでしたし、ゼリー一つですべてを吐き戻してしまうような拒絶反応にも苦しみました。

3.死苦

人間が味わう、最後にして最大の苦が死の瞬間です。
死の瞬間にどのような心地であるのかは、まさに死ぬ瞬間にしかわかりません。
そして、死ねば人生の終わりです。人として得たすべてを置いて、一人で死んでいくことになります。

0.生苦

これら3つの苦しみが生まれる原因は、当然『生命として生まれたから』です。
生命として生まれ、高度な思考能力を持った人間だからこそ、これら3つの苦しみを最大限味わうことになります。
これら3つの苦しみから逃れるために、人は様々な防衛反応と対処をしてきました。
野外で風邪を引かぬように衣服を作り、安全地帯のために家を作り、集団で住むことで自分が死ぬリスクを減らし、作物を作ることで飢えを減らし、日々の生活に楽しみを見出し、娯楽やお酒で死から目を逸らし…
そうした中で、より有利に生きるために、欲望を叶えるために他人や他の集落との諍いを起こせば、それは戦争となっていくことでしょう。
全ては生きるため、死ぬことから目を逸らし、少しでもその恐怖を紛らわせようとしてきたのが、人間の営みです。

老、病、死という苦しみと、その前提である生を苦しみであるとお釈迦様は説きました。

いやいや、でも生きていれば楽しいこともたくさんあるよ?

それはその通りです。
しかし残念ながら、その『楽しいこと』は苦しみを乗り越えるためのものではなく、目を逸らすためのものです。
この世にある『楽しいこと』では、決して死の恐怖を乗り越えることはできないでしょう。
あなたが得た財産や名誉、人脈などなど、ありとあらゆるものは死の前に無力です。
死までの時間を引き伸ばすことはできても、無限ではありません。
たとえすべてを使い果たしたとしても、必ずあなたの前に死が訪れ、終わりが来ます。
これを書く私も、これを書き終えた1秒後に死んでいるかもしれない。
人々はただ、そうした「自分が無くなる」という根源的な恐怖から目を逸らし続けています。

『一切皆苦』のもう一つの意味

…と、ここまでは『一切皆苦』という言葉を「全ては苦しい」という意味で解説してきました。

しかし、『一切皆苦』は『真理』の側面を表現するための言葉であるはずです。
であるにも関わらず、「苦しい」というのは人間の感情であり、真理の側面を説明するにはやや人間に偏りすぎていると考えました。

『一切皆苦』を表す『苦』は、おそらくもう一つ意味があると考えます。
それがすなわち、「ままならない」ということです。
あるいは「制御不能」と訳してもよいかもしれません。
つまり、「すべては制御不能である」という意味です。

私達は生まれる場所やタイミングを選べたわけではありません。
もし完璧に選べるのならば、もっと大富豪になるべき家の子になったり、国家元首になって思うままに国を動かしてみたり…もっと自由に生きていけそうな場所やタイミングを選べたはずです。

老いが始まるタイミングも選べません。
(なかなかいないと思いますが)目が悪くなりたいと思った瞬間に目が悪くなるわけではありません。
どちらかというと、今まで見えていたものが見えなくなって急にショックを受けることでしょう。
以前は余裕で走れていた距離が、途中で息切れして立ち止まるようになったとき、自分の中に悲しみが生まれることでしょう。

病気や死ぬタイミングも基本的には選べません。
自由に自死ができることはありません。
悩みに悩み抜いて、試しに挑戦してしまって、結果亡くなってしまう方もいらっしゃるでしょうが、大抵の方は死にたくない、老いたくないと思っていても、老いや病で倒れます。
食事も喉を通らなくなり、やがて確実に亡くなっていきます。

自分がお金持ちになりたいと考えても、考えた瞬間にお金が降ってくるわけではありません。
めっちゃちやほやされたいと考えた瞬間に、必ずあなたに会いに来てちやほやしてくれる人もおりません。
「〇〇したい」と考えたことに対しては、必ず相応の苦労が伴います。
そして必ずお金持ちになれるわけでも、有名人になれるわけでもありません。そういった点も含めて、「制御不能」なのです。

そして人間は「ままならない=苦しい」と感じるものです。
「〇〇したい」という欲求がなんの労力も無しに叶うことがないから、「苦しい」と感じるわけですね。
「生きたい」と思ってもうまく生きられなくて苦しい。
「死にたい」と思ってしまっても思う通りに死ねなくて苦しい。
人々は「〇〇したい」と欲求を抱き、しかしそれが思い通りに叶わない。だから苦しいと感じるのです。

…さて、現状の分析では『一切皆苦』から伝わる苦しみと意味をとことん語ってきましたが、ネガティブな話ばかりで終わってしまっては辛いですね。
少しだけ対処方針も語っておきましょう。

「ままならない=苦しい」を本当にしない

『一切皆苦』には2つの意味があり、「全ては苦しい」と「全ては制御不能である」と解説してきました。
このうち、「全ては制御不能である」という点は動かせません。事実そうなのですから。

しかし、「全ては苦しい」とは、本当にそうでしょうか?

人間の思考回路として、「〇〇したい」という欲求があり、それが叶わないから苦しいのだ、と先ほど述べました。
しかし、この世の中が制御不能であることを実感すれば、「そんなの叶わなくてもしょうがない、むしろ叶わないのが普通だ」と受け入れることもできます。
「欲求が叶わない=苦しい」と結びつける思考回路を、「欲求が叶わないのが普通」と受け入れる思考に変えた瞬間、あなたの苦しみは確実に減ります。
今まで、あなたが願いが叶わないことで苦しんできたのであれば、「どんな願いも叶うもんじゃない、叶ったら超ラッキーなんだ」と受け入れる練習をしてみましょう。

「生きたいと思ってるのにそれを諦めるの?無理でしょそんなの!?」
その通りですね。生きることがそう簡単に叶わないから受け入れろ、というのは非常に難しい。
だからその練習だったり、お坊様の法話を聞いたり、勉強や修行が必要になるのです。
このマガジンが進めば、こうした一見無理っぽい受け入れ方も、もしかしたらできるようになるかもしれません。
心が少しでも楽になる考え方を、将来示していけたらと思います。

まとめ

現在、あなたや私が生きる世界の理を、お釈迦様は『一切皆苦』という言葉で1つ説明しました。
全ては制御不能である。そして全ては苦しい。
しかし、「苦しい」というのは「ままならない=苦しい」と自動的に結びつけてしまう思考回路にあります。
ままならないことを受け入れることができるようになるほど、「苦しい」と思うきっかけが確実に減っていきます。

次は『諸行無常』について触れていきましょう。

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