「アルコールに生きる私たち」ストロング0、透明ビール、コンビニビールサーバーは福祉

完全に個人的に感じたことを書くマガジンを作成しました。

皆さんの意見も知りたいので、教えてください。




今日のテーマは「アルコール」です。

私は「飲酒が大好き!」と言うわけではないですが、人並みに割と好きな方だと思います。

しかし、私は、「アルコールを摂取する」ことが好きというよりも、お酒の力を借りて、飲みの場に繰り出すことが好きだと言えると思います。

仲の良い数人と居酒屋で、野球観戦をしながら神宮球場で、好きな女性と少し良いお店で・・・など。飲酒行為というよりは、飲酒行為にプラスされた空間(ないしはシチュエーション)を込みとしたトータル的な飲酒に惹かれる次第です。


しかし、最近の飲酒事情というと、「ストロングゼロ文学」に代表される、一人飲酒で虚無感や不安感を謳う潮流が生まれている。会社での嫌なこと、人間関係のトラブルなど、生き辛い世の中からの逃避として高いアルコール度数のチューハイで酔い、夢現つな夜を過ごす。

飲酒での現実逃避は今に始まったことではないが、特に昨今、その場凌ぎの飲酒行為が散見されるようになった。だが、それは悪いことなのだろうか。

確かに、アルコール依存などの二次災害的なリスクは秘めているが、たとえ、飲酒行為であれど自分のストレスを理解し、その解決策を見出しているという意味では、現代においては必要悪なのかもしれない。

ストロングゼロは飲む福祉」という言葉に代表されるように、社会的弱者を救う一つのサービスであるという認識が広まりるるあるのかもしれない。



お前がストロングゼロを飲むとき、ストロングゼロもまたお前を飲み込んでいるのだ
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――ストロングゼロを飲んだあとに宿酔があるように、ストロングゼロを毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。
「うんとこしょ、どっこいしょ。」それでもアルコールは、ぬけません。


ストロングゼロ文学は簡潔に言うと上記のようなものである。ニーチェも梶井基次郎もトルストイも、まさかこんなアレンジが為されるとは思っていないだろう。

今はまだ、すんでのところで笑いに消化しているが、可視化できない問題に繋がることはもはや必至である。今のうちに現実的な解決を提示できなければ、更なる文学が生み出されてしまうだろう。が、歴史的に見て、文学的にはそれも良いのかもしれないが。

皆、楽しく健康な飲酒を心掛けてほしい(ACみたいな啓発になってしまった)。

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