芸術と自然の証人。
ラパスのカフェで声を掛けられた。振り返ると女性がふたりこちらに笑顔を向けている。南米へ来て日本語を聞いたのは本当に久しぶりで、気持ちよく声を掛けてくれることに嬉しくなる。聞くとエホバの証人の方々だそうで、日本語での布教をすべくラパスへ来たのだと。そうか、そんな人々もいるのだな。心の隅でそっとがっかりするのを感じた。
外国を旅していると、キリスト教の布教っぷりに感心してしまう。土着の宗教とシンクロしながら人々の心に潜りこむ技は皮肉抜きであっぱれ。ヨーッロッパからアフリカ、中南米の田舎町まで、どこへ行っても十字架からは逃げられない。カルトの教科書だ。日本の鎖国も無駄じゃなかったというのもまんざら嘘じゃないのかも。と、思わざるを得ない。
宗教は良くも悪くも迷える人々の心を救うもの。日本の植民地だった韓国でキリスト教がこれほど布教したのも頷ける。朝鮮独立のために戦ったキリスト教徒がたくさんいたことも事実だ。
私には音楽をやるためにエホバの証人を「やめた」友人がいる。おのずの精神を自由にすることは、音楽だけじゃない、絵を描くにもものを書くにも欠かせないことだと思う。生々しく感じることなしに正直な表現はできない。怒りや悲しみってとても痛いけれど、そこに漂ってみることってけっこう大切な作業だ。迷ったり疑ったりすることも、信じるとか認めるという作業の一部だと私は思う。相反するものではないと。幼いころから宗教に教わったことはもちろん彼女の中に生きている。後付けのルールとか制約とかを抜きにしたもっと素朴で純粋なものを今もちゃんと信じているのだと思う。とても繊細で震えるほど力強い彼女の歌声とギターを、旅の間も時々聞いている。
迷えることは楽でない。道が示されればと思うことはとても多い。私にとっての救いはたとえば集中して絵を描くことだったりする。たとえばこうしてつらつらと書いてみることだったり、例えば野菜を育てることだったり山を登ることだったりもしくはただひたすら歩くことだったりする。それはなにか道を示してくれるものではないけれど、とても充足した気持ちにさせてくれるのは、宗教と似ているように思う。
私はだから、自然や芸術って社会にとってとてもとても大切なものだと思っている。いつもそこにある、もしくはあるべきもの。光も闇も生も死もすべて包括したもの。慰め戒めるもの。それを守るため邁進する人たちにはどんな宗教の法皇や教祖も足元にも及ばない。
「今度の愛知トリエンナーレはちょっとすごかったよ」と電話越しに興奮する母の声。とても危うく大切なものがひとつ救われた気持ちがした。