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上善如水〜切り離してきた自分の半分を取り戻す〜(中編)
前編の続き
人生の後半は「統合」の段階である。
これまで築き上げてきたアイデンティティー(自我)を見直しながら、解体していく時期にあたる。
この物質世界で生きていくために様々な知識や技術、ルールや習慣を身につけてきた前半からの方向転換を図る。
方向転換のサインは、ミッドライフ・クライシスと呼ばれる中年期特有の危機。具体的には健康問題、大事な人との離別や死別、リストラや倒産、子供の自立に伴う喪失感などである。
自分の人生、果たしてこれで良かったのか、家庭やお金、モノなどはそれなりに手に入れてきたけど、それでは満たされない捉えようのない不足感。
今まで前半でやってきたやり方(努力・コントロール・自立、切り離し)では通用しなくなってくる。
こうした出来事は人生の後半(午後)への転換を促すサインなのだが、ここで自我が激しく抵抗する。
無理もない。自我の解体に、その自我が同意するはずがない。
自我からすれば「死」の感覚を伴うため、前半のやり方を手放そうとせずにしがみついて暗いトンネルを突き進もうとする。
本当はトンネルの出口は正面ではなく、少し振り返った斜め後ろにあるのだが・・・。
振り返ることができて、統合への出口に向かうようになると楽になっていく。
ではどうやって統合の道を進むのか。その指針になるのが荘子の教えだろう。
「上善如水」
水のように、器によって形を変える柔軟性をもって生きる。
自立の自由を目指して努力してきた前半とは違って、戦って得るものではなく、自我のこだわりや信念を手放した時にこそ真の自由がそこにある。
こだわりや信念を捨てたら無秩序になるのではないかという心配は無用。
一度信念を身につけて、それを善だと信じて極に触れた経験があれば手放したところで無秩序にはならない。
そのためには前半で規律(ルール)を学び、努力する経験は必要だ。だから前半が悪いと言っているのではない。
バスケットボールのシュートで例えれば、シュートを入れることにこだわってひたすら努力する経験を踏まえた後
「入れなければならない」というこだわりを手放して、力を抜いて打ったシュートが入るのと似ている。
ルールを学ばす、努力を否定し、練習しなかったらシュートは入らない。
一旦努力し、「入れなければならない」という責任やプレッシャー、義務感を感じるような境地に達したからこそ、それを手放すこともできるのだ。
つまり、こだわりを捨てるということは、力を抜いて、今までいた世界線から脱却するということ。
中道とは、善や悪、苦や楽、清潔や不潔などの様々な二項対立の世界線における真ん中に立って「ほどほどに」ということではない。
二極を経験することで、はじめてその世界から抜け出し、真の自由が手に入る。
ではどうやって手放すのか。
(後編につづく)