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上善如水〜切り離してきた自分の半分を取り戻す〜(前編)
お酒の話ではなく、中国の諸子百家の一人、荘子が言った生き方の話。
荘子の思想は孔子に代表される儒家に対するアンチテーゼとして語られることが多い。
儒家は社会規範や倫理を重視し、自己を律することで社会の調和を目指せと説く。つまり「こうあるべき」という信念を身につけて皆努力し、規律を大事にせよと言っているとも言える。
それに対して荘子の思想は、枠組みにとらわれず、器(置かれた環境)によって姿を変える水のように生きるのが最上である(上善如水)と説いた。
一見、相反するように見えるこの二つの思想だが、これらは二項対立として捉えるべきものではなく、人生の段階に応じて、本来どちらも生き方の指針になるものではないのだろうか。
人生の前半は「分離」の段階である。
この時期はまず母親との分離(出生)が起こり、また自他の分離も起こる。つまり皮膚を境界としてその内側は自己、外側は非自己という切り離しをする。
さらに肉体から自我を切り離し、自我から場面や状況によって使い分けるペルソナ(仮面)を切り離す。
こうして「私とはこういう人間」というアイデンティティーが完成する。
学校では「他の人とは違う”自分らしさ”を見つけていきなさい」、「好きなこと、得意なことを見つけてアイデンティティーを築きなさい」と習う。まさにそれが大人になるということだ。
この段階で役に立つのが儒家の教え。前述したように自分を律しながら「こうあるべき」という夢や目標を目指して努力せよという教え。
こうして大人になっていく中で受ける教育や、成功・失敗体験によって様々な信念が身に付く。自分はこうあるべき、人はこうあるべき、社会はこうあるべきというものだ。
しかしこれには副作用がある。「こうあるべき」と思った瞬間「こうあってはいけない」が生まれるのだ。
「明るく元気であるべき」は「暗くてはいけない」を生むし、「正しくあるべき」は「間違えてはいけない」を生む。
光(理想)を求めれば影が生まれ、その光が強ければ強いほど影は濃くなる。
この影がやがて他者に投影され、心理学的にいう「シャドー」が身近に現れて苦しむことになるのだが、実はシャドーとは抑圧し切り離してきた自分自身に他ならない。
各個人の中では善悪が生まれ、社会ではその個々の善悪がぶつかって、
正義 VS また別の正義
の争いが起こる。
結局、理想や正義などというものは個々の気質や経験によって違うのだから、理想を追求し努力したところで、結果世の中は争いで溢れることになり、個々人は自分が生み出したシャドーとの戦いに疲弊していく。
「分離」の極みである。
こうした状況を嘆いたのが荘子なのではないか。
荘子が言ったとされる「大道廃れて仁義あり」は
人として実践すべき道が行われていた昔は、仁義の道を説く必要もなかったが、後世において道徳が失われたため仁義を説く必要性が出てきた。
という意味で使われる言葉だが、本来言いたかったことはそうではないと思う。
そもそも「道」はRoadではない。道徳でもない。
「道(Tao)」とは分離される前の「全体」、言い換えれば宇宙(物質宇宙ではなく情報宇宙、仏教における空、インド哲学におけるブラフマン)そのもののことだ。
全体から分離した結果、儒家の説く仁義が生まれたが、それで終わりではなく、続きがあると言いたかったのではないか。
それが人生の後半、「統合」の段階である。
(中編につづく)