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楽しいと感じるのは、この世自体に迎合している証拠?いや、そうではない。
たとえこの世が間違ってると思っていても今を楽しむ権利は誰にでもある。
私がとても嫌な気分になる感覚がある。
それは、何か楽しいと感じるということは、すなわちこの世の中を無意識に肯定しているのではないかという感覚だ。
どういうことかというと、今嬉しい、楽しい、希望が持てるということは、こういう世の中だからこそそう思えるのだと、自分に湧くプラスの感情とこの世自体の肯定感とをつなげて考えてしまうことだ。
私は、こういう現在のプラスの感覚を社会や、世の中のおかげとする考えがものすごく嫌いだ。
以前からの投稿でも散々言っているとおり、今のような世界線であり続ける限り、この世自体に価値を見出せる部分はない。
だから、私は例え楽しいと刹那的に思っても、この世自体を肯定しているということは1ミリたりともない。いや、そうは思いたくはない。
自分に一度問いかけ確認した上で希望を抱いたりする
だから、私は何か希望やプラスの感情が湧いてもそれはあくまで個別的な事象に対して湧いた感情であって、決して世の中自体を肯定しているわけではないということを自分に言って聞かせるようにしている。
たとえ社会や世の中が間違っていても、楽しいと思えることは訪れるものだ。もし、世の中がもっとまともになれば、今よりももっと生きる希望や楽しいと思えることが増えるだろう。ただ、それだけのことだ。
だから、決して今の世の中がよいから楽しいわけではない。それは、考えればすぐに分かることだ。
今の幸せを社会のおかげとか全体論に落とし込もうとする輩の声は無視する
なぜ、わざわざこういうことを言うかというと、今を楽しめるのは、こういう世の中のおかげ、とすぐに全体論に落とし込もうとする輩が大勢いるからだ。特に上の世代に多いかもしれないが、こういう個別の事象を全体論に落とし込んで社会を世の中を肯定させようとする輩にはうんざりする。
もちろん、戦時中などと比較して平和だからとか物質的に恵まれているからという意味での恵まれている、という声に対しては何ら異論を唱えるつもりはない。
そうではなくて、悪が自然浄化されない今の世の中、本質から目をそらそうとする人間たち、そういう目に見えないレベルでの退廃した世の中の事を言っているのだ。そういう世の中を恵まれているだとか、肯定しているとするのはすなわち間違った状態を是認することになりかねないので、そこは明確に線引きする必要がある。
だから、わざわざいま少しいい感情が生まれた所で、それは別に世の中全体を肯定しているわけでもなんでもないと自分に語り掛ける。
そうして世の中自体への評価と個別の事象を明確に分断した上で、いま自分に沸き起こったプラスの感情を味わうようにする。