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どうやって気持ちの整理をつけようか

最近思ったことを、備忘録的に残す習慣をつける

 物事の本質的なことは朝起きた直後にひらめくことが多い。
 ものすごく自分にとって大事なことは、一瞬頭の中に浮かぶが文字に起こさないと消えて二度と思い出せなくなる。だから、最近朝の時間はとても大事と思うようになったし、気分良く過ごせるのも朝の限られた時間だけだ。
 だから、できるだけ思い浮かんだことは文字に残しておかないと、と思う

今日色々と思ったことを書いておくと・・・

 やっぱり、あれこれこの世に対する不満や人生に対する絶望感を嘆いても、それだけでは生産的ではないという考えも頭をもたげてくる。また、大した実績も上げてないのに口だけ偉そうに、という声も聞こえてきそう。

 自分的にはそれでもいいのだが、一生食べるに困らないほどの資産があるわけでもないので、否が応でも食い扶持を稼ぐということをしなくてはならない。
 本当はすぐにでも眠るように死ねたらと思う事も多い。しかし、それには死んだ後の問題もある。
 自分は自分の資産を親はともかく兄弟には一銭たりとも残したくはないので、その辺の手も打っておかねばならない。妹は、某外資系の有名会社に勤務し、夫も国家公務員で子も一人しかおらず、それほど子育て・教育費もかからない。そのため、妹一家は金持ちだ。金が必要かというとそういう状況ではない。

 ただ、自分の気持ち的にただ稼いだ金を嫌な妹には絶対に残したくないというだけだ。民法上兄弟に遺留分(最低限の取り分)はないため遺言などで兄弟(とその代襲相続者)には遺産を渡さないと書けばその遺言の通りになる。しかし、遺言で何も書かないと、親が生きているうちは親に相続分がいくが、親がいなくなってしまったら、全部妹のところに行ってしまう。

 だから、兄弟に資産を残したくなければ、別に相続人となるべき人を立てておかないといけないが、そもそも信頼できる人間が皆無であるため誰に金銭を残すかという問題が未解決だ。よくあるのが、慈善団体への寄付だが、何に使われるか分かったものではない得体のしれない団体に無意味に金を渡すというのもそれはそれで嫌な話だ。

ほかに思ったこと

 あと今日思ったことは、人間が人間同士つるむ理由について。

 それは、色々と免罪符を手に入れるためだ。
 人は他の人と一緒になると、様々な物事に対する罪悪感が薄れるのだ。

 よく、独身者が稼いだ金を自分のために使って暮らすことを独身貴族などと揶揄される。そう、独り身はたとえ自分で稼いだ金であったとしても、それを自分のために使うことに対して批判の対象になるし、いちいち罪悪感を感じさせられてしまう。

 半面他人といると、みんな一緒だからと贅沢も正当化される。例えば家族持ちは、家族それぞれの誕生日には当たり前のようにケーキを食べたり、定期的に外食もする。クリスマスなどのイベントごとには豪華な食事も何の罪悪感も感じず当然のように味わうことができる。
 
 また、他人とつるめば、人を傷つけたり、悪さをしても罪の意識が軽減されてしまう。いじめは本来犯罪に等しい行為だが、他人と共にやればそれはただのおふざけで済まされてしまう。

 大体学校などで行われるいじめも、いじめる側が多数でいじめられる側が一人、という構図が一般的だ。
 だから、悪人は他人とつるもうとする。
 もちろん、道徳的に間違ってはいない人との関係性というのも存在するだろうが、人間同士がつるむとロクなことにならないことが多い。

独り者は、気持ちの整理を付けたうえで、しぶしぶながら行動を起こしていくしかない

 一人で孤軍奮闘している者よりも、人間社会に迎合している者により多くの恩恵が与えられるという理不尽な状況はとても耐えがたいものである。
 独り者は、一人で努力を始めても行き詰ってしまうことが多い。
 他方、人間社会にコネクションがあるものは、半分の努力でもトントン拍子に物事が進む。
 その大きな理由は、人間は気づかぬところで思い込みという名の呪いにかけられてしまっているからだ。それが、いつまでも尾を引き、食い扶持を稼ぐためにする努力もすべて水の泡になってしまうことが多い。
 
 だから、独り者が何か動こうとするには思い切りも必要だが、同時に常に細心の注意を払い慎重であらねばならない。

気持ちの深い部分は自分自身であっても100%コントロールすることは難しい

 その際に大事になってくることは、気持ちの深い部分は実は自分自身のコントロールの埒外にある、ということだ。
 例えば、過去の嫌な経験を忘れ、心機一転頑張るとか、今後こういうことは気にしないといった類の決意は自分でそう決めたとしても、気持ちの面で100%は実現しない。やはり、嫌なことはいつまでも忘れることはできないし、他人の言動を気にしないと決意したとしても、外部からの影響がある程度の強度を超すと気にしないという事も難しくなってくる。

 だから、ある刺激を外部から与えられ、それに対してどう反応してしまうとか、感じてしまうということは、不可抗力の側面が強い。
 気持ちを安定させるには、その不可抗力で感じてしまうことと、自分の気持ちの折り合いをどうつけるかという事が大事だ。

身体性を発揮して、気持ちの逃げ道を作っておく

 対策の一つは、何か嫌なことがあった時、それを思いながらふーっと息を吐き出すことだ。
 バタフライ効果という、蝶の羽ばたきが、遠く離れた地で竜巻を起こす物理現象が知られているが、言葉では表現できないほど複雑で苦しい思いを抱えてしまった時、その想いを息に乗せて大気中に吐き出してみる。すると大気は循環して、その流れは微妙な揺らぎをもたらし、様々な作用によって変化を起こすきっかけになるかもしれない。
 または、そういう苦しい思いを抱えた人がいるということが、大気の流れによって何らかの拍子にてどこか遠く離れた別の場所にいる誰かに伝わるかもしれない。
 そういう一縷の望みを託して、辛い思いを息として吐き出してみよう。

 これも立派な身体性の発揮の一つだ。何も、他人に不満を聴いてもらうことだけが、ストレスのはけ口なわけではない。独りの者には独りの者に合った気持ちの吐き出し方というものがあってもいいはずだ。

 あとは、孤軍奮闘して気持ちの面で追い詰められてしまった時のために、予期される一つ一つの状況に対して、予め予防線を張っておくことが考えられる。

 定期的または定型的に内面に訪れるストレス状況というものもある。
 一つが、先ほど述べたように独り者の努力は報われないという呪い、だ。
 本当はまったくそんなことはないのだが、なぜか人間は何かきっかけがなければ物事はうまくいかないとか、過去があって現在がある、など捉え方によっては呪いとなる言葉をたくさん聞かされて育つ。

 例え、どんな過去があっても、今は今これから頑張ればきっとうまくいくと信じよう。
 呪いの類は一切自分には影響はない、という信念は実は前述の100%コントロールが難しい気持ちの深い部分の問題ではある。
 しかし、例え100%呪いを排除できなくても、少なくとも呪いに対して自分なりの抵抗感は示そう。
 いつまでも、呪いに負けて停滞し続けるのは馬鹿らしいことだろう。

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