きもち をのせて懐かしむしあわせ
つい最近娘のいる友人からきいたこと。市営プールへ行ってきたらしい。
「それがさ、大人になってからプールあそびなんか面白いと感じたことなかったんだけど、ママになってから子供の遊びにつきあう内にすごくたのしめるようになったの。」
友人がいうには、どんな幼稚な遊びも、子供を通して、自分のこどもの頃の気持ちがじわりじわりにじみでて、楽しくなるのだと。それは懐かしさがあって、こどもの頃の自分みたいなんだと、穏やかに教えてくれた。
学業、責任、しごと、ルール、建前たちをうまく扱えるようになるには、幼い、乙女心は奥の、奥のずっと奥に無意識にしまって。世の中のいう「おとな」として生きている。
「こどもの頃のじぶん」その鍵となるんだろう。
そういえば
「おとな」を乗り越え、「老い」と立ち向かう義父にこんなことを話してもらったことがある。
「あのね、自分が思ってもいない病気や手術を受けたりして「老い」を感じるんだ。「老い」てね、新しいことをしようとか、やる気がなくなってくるんだ」
さみしそうに小声で語られた言葉、だからといって「孫」をほしがるとは話がつながらないしと、話半分できいた。
そのあと見つけたエッセイ(酒井順子、ガラスの50代」のなかでみたんだが。
「自身の生命力が薄れてくると、赤ちゃんが明るく発光してみえる」こと
また、うろおぼえだが、、、歩けなくなった自分の気持ちを天真爛漫に走り回るこどもの姿から、元気や懐かしさをもらうようなことものっていた。
こなしの私ですら、とおい存在にうつり、かわいくみえるのだから。桁外れなのかもなぁと。
同級生ならじぶんのできないことを恨めしく感じるかもしれないけれど、小さな存在の行為は、自分の中にあったはずの幼く、輝かしい気持ちを思い出させるだけでなく、まるで自分がやっているように、同化しているのだろうか。。
私は経験しないかもしれないが、ママからよくきく"「姑の我が子育てた伝記」を語る姿"は、もしかすると、懐かしさがくれた「しあわせ=エネルギー」だろうなぁと想像した。
そのしあわせは、自身では産み出せない「やろう」というエネルギーになり、若々しい自分になる錯覚みたいなものかもしれない。
この先わからない私は、じぶんでじぶんの鍵を作り出すか、友人のこどもたちからもらうのか、
いやはやや、、、お先は神のみぞ知るとしかいえないや。