AIと人間の違い。『エレファント・マン』と『アイ,ロボット』の共通点 #遺書004
まだ文字を読めない娘、息子のためにせっせと遺書を書いています。
2024年6月から、AI系の仕事をする予定です。
今日は、AIに関する思い出と、差別の話です。
※この記事と仕事内容は、まったく関係ないです。AIに関連するというだけ
「機械」と「人間」の違いについて論じなさい。
大学時代。
ほとんど出席していない講義で、「単位だけは欲しい」という浅ましい考えから、期末テストにはしっかり出席しました。
小さめの映画館のような大教室で配られたA4の問題用紙には、こう書かれていました。
グーテンベルクの銀河系
その講義の詳細は忘れてしまったのですが(そもそも当時からほぼ出席していない)、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』をよく引用していました。
難解な本で知られる同著は、乱暴に要約すると、こんなことが書かれています。(と、僕は理解している)
人類にとってのテクノロジーとは、人の機能を拡張するものである。
グーテンベルクが発明した活版印刷というテクノロジーは、人の知覚という機能をものすごーーーく拡張した。
知覚とはすなわち世界をどうとらえるかなので、活版印刷の登場以降、人類はあらゆる面でメディアからの影響をうけている。
新しいメディアが出現すると、人類はあらゆる面で新たな影響をうける。
ただ、上記のような内容を知ったのは、大学を卒業して随分たってからでした。
講義自体を受けていないので、今となっては教授が欲しかった模範回答はわからないのですが、
たぶん、「機械は知覚の影響をうけない。人類は知覚の影響を絶えずうける」的な内容が欲しかったのでは、、、と、今となっては推測します。
全然違うかもしれませんが。
『エレファント・マン』と『アイ,ロボット』
当時、試験に挑んだ20歳くらいの僕は、何とか回答用紙を埋めなければと頭を抱えました。
その時にふと思い出したのが、数日前に観た2本の映画でした。
1本は『エレファント・マン』(1980年)。
もう1本は『アイ,ロボット』(2004年)です。
この2本の映画を観て感じたことが、この「機械と人間の違いについて論じなさい。」というテーマと、ピタッとハマったのです。
結論から言うと、こんな論旨の小論文を書きました。
成績は「可(C)」でした笑
優しい教授に感謝です。
AIと差別
「人工知能」と「人工生命」は、別の研究領域とされるらしいのですが、遠くない未来に「人工生命体の人権」的な問題が注目される時がくるでしょう。
(ちなみに僕は大学で「基本的人権」のゼミに所属していました)
その議論の本質は、「違いを論じられる側」すなわちAIが「人権を持つべき生命と言えるのか」の証明ではなく、
「違いを論じる側」すなわち現生人類が「人権を訴えるAIを無視できるか?」にかかっているのだろうな、と想像します。
「人権を訴える」は、なにもAIが直接的に「AIに人権を認めろ」という要求をしてくるだけではありません。例えば「ドラえもんは友だちである」という状態からくるメタメッセージの訴えも含みます。
ChatGPTが質問に答えてくれた時に、つい「ありがとう」と打ってしまう感覚の延長線上にあるものです。
『エレファント・マン』で描かれる不条理な差別
『エレファント・マン』は、19世紀ロンドンを舞台にした白黒映画。
実在した奇形の青年ジョゼフ・メリックの数奇な生涯を描いた作品です。
メリック青年は特異な容姿から、見世物小屋で見せ物にされています。
また、周囲から迫害され、暴力や奇異の目に晒され続けた彼は怯え強張り、周囲からは「知能が低い」と思われていました。
まったく人間扱いされていなかったのです。
そのメリック青年に興味を持ったトリーヴス外科医。
ある日トリーヴス外科医は、メリック青年が聖書の一節を暗唱しているのをたまたま目撃。彼と人間として向き合う中で、メリック青年も徐々に心を開いていきます。
そして、メリック青年は、知性に溢れ、芸術を愛する優しい“普通の青年”であることを取り戻しいきます。
映画は、メリック青年が自室のベッドで、「ふ〜〜」と息を吐きながら、安らかに眠りにつくところで終わります。
僕にはそのラストが、不条理な差別に苦しめられ続けたメリック青年自身が、人としての尊厳を取り戻した瞬間に見えました。
『アイ,ロボット』のウィル・スミスが抱く感情
対して、ウィル・スミス主演の『アイ,ロボット』。
こちらはエレファント・マンの舞台から150年くらい未来の、2035年シカゴを舞台にしたSF映画です。
人間とロボットがすっかり共存した正解で、
ウィル・スミス演じるスプーナー刑事は、大のロボット嫌い。
生活になくてはならない便利なロボットを毛嫌いし、時に罵倒するスプーナー刑事は変わり者として描かれます。
よくあるロボットホラーで、絶対に人間を傷つけないはずだったロボットが急に人間に牙を向く。的な話です。
面白いのは、ずっとロボット嫌いだったスプーナー刑事が、最終的にはロボットとの友情を確認し、握手を交わすところ。
つまり、作中では「ロボット=やっぱり怖い存在」ではなく、「ロボット=友」という結論で描かれているんです。
「主人公だけがディストピアの真実に気がついており、周りの不理解を乗り越え、信念を貫いてディストピアを救う」という単純なプロットではなく、
「主人公だけがディストピアだと感じいた世界は、実はディストピアじゃなかった。」という、プロットなんですね。
映画の中でははっきりとは語られていませんが、スプーナー刑事がロボットに抱いている感情は、間違いなく差別でしょう。
物語の最後の握手シーンは、ロボットであるサニーが尊厳を認められた瞬間に見えました。
まとめ
2000年代を生きていた大学生の僕には、『エレファント・マン』の中で描かられる差別は、恐ろしく、歪んだ、グロテスクなものにうつりました。
我が子らが2035年を生きるころには、『アイ,ロボット』のスプーナー刑事がロボットを罵倒するシーンを、恐ろしく、歪んだ、グロテスクなものにうつるのかもしれません。
「AIネイティブ世代」といっていい僕の娘、息子は、ほぼ間違いなく「生身の人間」と「人間ぽいAI」の両方と関わり合いながら育っていくでしょう。
その時に、
「論じられる側の真実」みたいなものを変に追い求めすぎず、
「所詮は自分がどうとらえ、考えるかなんだな」ということを思い出してもらえると嬉しいな、と思います。
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