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ハッピーが教えてくれた世界の「色」


義務教育期間をほぼ病院ですごした私

私は生まれついての血液の病気で、幼少期から思春期程の期間をほぼ病院で過ごしました。幼稚園には2日だけ、小中学校はほとんど学校にいくことはありませんでした。よくドクターと遊んだり、看護師さんと遊んだり、病院の小さな図書室で本を読むのが好きでした。

そんな毎日の中で、たまに家に帰ることができる期間があって、家に帰るたびに、ハッピー(シェルティー)が真っ先に走ってきて「おかえり!」と私をその体いっぱいで迎えてくれました。

ハッピーとのお散歩で感じた「色」

そんなハッピーと時々ではありましたが、お散歩に行ったときに、よく「待て!と、よし!」を教えていました。教えていたというよりも、そうやってハッピーと遊んでいたのだと思います。
シェルティーは牧羊犬で知能と運動神経に優れていて、およそ100m離れても、待てと聞くと座って遠ざかっていく私をじっと見つめていて、よし!と言うと地面をけって弾かれたかのように全力で走ってくる・・その光景が私は好きでたまりませんでした。

ある日、当時流行っていたポラロイドカメラを首から下げてお散歩に行き、ハッピーが全力で駆け寄ってくる瞬間を何枚も写真に撮りました。
そうして撮った写真をみると、どこか物足りないような気持ちになって・・
ハッピーが遠くからこちらへ走ってきているその「すごく正しい」瞬間は撮れている、でも、その正しい瞬間からは、きっとハッピーが感じていたであろう「よし!いくよ!」という感情や、全身を使って走っている事への喜びが、ほとんど感じられませんでした。
私がハッピーから確かに感じた、高揚感や疾走感、そして嬉しさ。ハッピーの存在感。私たちの目では見えない、でも確かにその瞬間そこにあった、そういうものを現そうとしたら、それはきっと「色」であり絵なんだろうなと、その頃から思い始めました。

私たちの世界に重なるようにして存在する

「見える色」「見えない色」

私たちが日常生きている生活の中にも、さまざまな色がありますが、そのリアルな、現実的な世界の中にも「見えない色」がいつもそこにあり、それはどこにでもあるけれど、知らない感覚というのを感じることができないように、見える色と見えない色が混ざり合っている世界に、私たちは生きていて、その交差する部分に、美しさを感じたりするんだろうなと。
世界はもっと広い、私が思っているよりも、ずっと。そんな感覚を、ハッピーはその身全身で、私が理解するよりもはやく、心の中に投げ入れてくれたのだと思います。

生きている中で出会える「ごくわずかな瞬間」

あなたにも覚えはないでしょうか。すごく嬉しかった時、幸せだった瞬間、忘れたくない時間の存在を。
それは思い出すほどに美しく、或いは醜く、しかしながらその時間は、一瞬に等しいほどに短く感じられる・・・。

私は絵に関してなんら特別に学んだことも、絵について詳しく調べたこともありません。きっと時代によって絵の存在理由は変わっていたのかもしれないけれど、もっと「正しい」見かたがあるのかもしれないけれど、描いたその人にとって、その光景は間違いなく、長い年月生きてきた中で出会うことができた大切な「ごくわずかな瞬間」なのだろうなと、思うのです。
その大切だと感じた想いを、残したいと思った理由を、たどるような気持になるからこそ、絵は美しくも、醜くもあるのではないかなと、思うのです。

自分の中のコントラスト

この「色」という感覚が、私のその後の人生に大きく影響し、今もなお、それは何かしらの色を伴って、私の中に渦巻いている。
苦しいとき、辛いとき、行き詰ったとき、誰かが必ず傍らで手を伸ばしてくれたように、私も苦しんでいる友に、手を伸ばそうとする。友の事を精一杯考える。やみくもに大丈夫だと、大切な友には言いたくはない。
そうする中で、何か交わる部分があれば、そこから、友が一人で悩んでいる心の領域まで、手が伸ばせるかもしれない。きっとそこでは、見えないけれど近しい色が交わっているのだと思う。

だから世界は、今日も厳しく、また美しい。

その間でだれかと泣いたり笑ったりするのが、等身大の私だと思うから。

ありがとう、ハッピー。

©心瑠華へべれけ


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