木菟と女郎蜘蛛
木菟はその夜も真っ白な原稿用紙の前で口を引き結び、唸っていた。
「木菟先生、どうしたんですか?」
同居している経凛々が茶を淹れ、木菟の前に置いた。
「怖い顔してますよ。お茶を淹れましたから、少し休んでください。」
「ありがとうございます。」
木菟は経凛々を振り返り、力なく微笑んだ。
「小説のネタが浮かばなくて。どれもぱっとしなくて、全て途中で行き詰まってしまうのです。」
「小説家も大変ですね。」
言いながら、経凛々は原稿用紙を一枚食んだ。今の彼の主食なのである。
「ああ、何かネタになるような話がないだろうか…。この間の髪切りの話は書いてしまったし。」
経凛々は顔を顰め、黒い薄手の手袋をはめた手を突き出した。
「嫌ですよ。またこの間のような目に遭うのはごめんです。」
彼の手は、先日の髪切り事件の時に囮として警察と揉み合っていた際に破れてしまったのである。
木菟は苦笑した。
「その節はお世話になりました。でもその手袋、似合っていますよ。」
「フォローになってません。」
口を尖らせた彼を見て、木菟は可笑しそうに笑った。
「すみません。でも、お世辞じゃないですよ。」
「…。お菓子、持ってきます」
台所へ向かう経凛々の後ろ姿を見送って、木菟は胸を撫で下ろした。
どうやら機嫌を直したらしい。いじけたり喜んだり、本当に人間味がある。
満足気に湯呑みを傾けた木菟の、目の前に置かれた真っ白な原稿用紙に、ぽとりと何かが落ちてきた。
「ん?」
それを目にした木菟の顔色は、さっと青ざめた。
「ひゃっ‼」
居間で情けない悲鳴が上がったのを聞いて、経凛々は顔を上げた。
「どうかしましたかぁ。」
声をかけつつ、盆に乗せた菓子を持って居間に戻ると、尻餅をついた木菟が引きつった顔で机を凝視していた。
「何かあったんですか?」
木菟はちらりと経凛々を見ると、机をそっと指差した。
その先には、わしゃわしゃと長い脚を蠢かす大きなアシダカグモがひっくり返っていた。
「うっ…。」
そのグロテスクな姿に思わず呻く。
「大きいのは駄目なんです、何とかしてください。私、触りたくないです。」
「木菟先生…。私だって嫌です。」
木菟の女々しい姿に呆れながら、蜘蛛を叩こうと蝿叩きを探す経凛々ではあったが、ふとある考えが頭に浮かんだ。
この蜘蛛も、命が惜しいのではないだろうか?
その場から逃げ出そうと必死でもがく蜘蛛の姿に、雨に打たれて生きたいと叫んだあの日の己を重ねたのだ。
彼は蝿叩きをちりとりに持ち替えた。
そして蜘蛛を掬い上げ、窓から外へ放った。
「殺すことは、ありませんよね。」
経凛々は木菟を振り返り、微笑んだ。
「私の目につきさえしなければ、どちらでも。」
引きつった笑みを浮かべ、木菟は答えた。
そしてふと神妙な顔になって、呟いた。
「しかし、夜の蜘蛛とは。少し縁起が悪いですな。」
「え?」
木菟は闇に覆われた窓の外を見た。
「夜の蜘蛛は親でも殺せ、という迷信が昔からあるんですよ。何でも、夜の蜘蛛は盗人の前触れとか、地獄の使者などの悪しきものだと言われるようです。」
「へえ…。」
「何せ姿形が不気味ですからね。そのような点でも、蜘蛛は昔から忌み嫌われる事が多いようですね。」
話しているうちに先ほどのアシダカグモの姿を思い出したのか、木菟は身震いした。
そんな様子を見ながら、経凛々は考えた。
蜘蛛も、生まれたくてあんな風に生まれたのでは無かろうに。生まれついた姿で運命が違うとは、この世も無情。
今でこそ端正な姿をしている経凛々だが、元は原稿用紙の化け物である。彼はそんな自分を、蜘蛛の境遇と重ねたのだろう。
「経凛々さん?」
顔を上げると、心配そうな木菟がこちらを覗き込んでいた。
「どうされました、顔色が優れませんが。」
「い、いえ。何でも。」
彼は腰を下ろし、炬燵に足を突っ込んだ。
家族がいるのだから、その点蜘蛛よか幸せか。
経凛々はそう思い直し、再び紙を食んだ。
ー
翌日、経凛々は六花で美子と世間話を楽しんでいた。
彼が昨日の蜘蛛の話をしてやると、美子は興味深げに相槌を打ったり声を上げて笑ったりと、楽しそうな様子だった。
「先生ったら、そういうところがあるからしょうがないわよね。」
そう言ってくすくす笑う美子を見て、経凛々は少し木菟を羨ましく思った。
美子が木菟を慕っているのは、彼には手に取るように分かった。木菟には分からないようだが、彼らは傍目から見てもお似合いだ。
自分にも、そんな風に慕ってくれる女性がいたらいいのに。
彼も経凛々とはいえ1人の男、そう思うのも無理はなかった。
そんなことを考えているところに、1人の客が入ってきた。
黒々として艶やかな髪を長く伸ばした、晴明と同年代くらいの美しい少女で、少し美子に雰囲気が似ていた。しかし美子とは違い、子供のようなあどけなさがある。
彼女は経凛々の隣の席に座ると、ミルクティーを注文した。
注文を受けた美子も奥に引っ込んでしまい、暫くその場に沈黙が続いた。
「こんにちは。」
不意に、少女が経凛々に話しかけてきた。
「えっ?…え、あ、こんにちは。」
彼が挨拶を返すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「…やっぱり、素敵。」
「え?」
経凛々は首を捻った。
どこかで会っただろうか?…いや、それなら会話くらいした事がある筈だ。それに、こんな綺麗な子を忘れる訳がない。
訝しげな様子の経凛々を見て、少女ははっとしたように目を見開いた。
そしてさっと立ち上がり、非礼を詫びるかのように頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!急に変な事言って、驚かれましたよね。」
「あ、いえ…。大丈夫です。」
経凛々は微笑んだ。
「ただ、あなたのような綺麗な方が知り合いにいたかと思いましてね。」
少女は顔を僅かに赤らめ、再び椅子に腰を下ろした。
「こういう形でお会いするのは初めてになります。」
「?」
意味が分からず再び首を捻っていると、彼女は例の幼女の如き笑顔を経凛々に向けた。
「前に一度、ここでお見かけしました。その時から素敵な人だなって…。いつかお話したいと思ってたんですけど、中々勇気が出なくて。」
そこに、美子がミルクティーを運んできた。
「お待ち遠様。」
「ありがとうございます。」
少女はティーカップを物珍しそうに眺めている。
「紅茶は初めてなの?」
美子が尋ねると、少女は頷いた。
「みんなが頼んでたから、気になって。」
美子はにっこりと笑った。
「そう。それじゃあびっくりしちゃうわよ、美味しくて。」
少女は慣れない手つきでティーカップを持ち、口をつけた。
そして顔を綻ばせ、嬉しそうに言った。
「美味しいです、これ!こんな美味しいの、初めて。」
心の底から嬉しそうに、ティーカップを傾ける少女。
ミルクティーを飲み終え、カップをソーサーに戻すと、彼女はぐっと拳をつくって言った。
「決めました!私、ここの『常連さん』になります!」
そんな彼女の表情に無邪気さを見て、美子と経凛々は顔を見合わせて笑った。
ー
「何かいい事でも?」
幸せそうな表情で帰ってきた経凛々を見て、木菟が尋ねた。
経凛々は頷き、今日六花であった事の顛末を語った。
「へえ、そんなことが…。」
また六花が賑やかになりますね、と、木菟も嬉しそうだった。
「明日もいるかな、あの子…。」
経凛々の呟きを微笑ましく聞きながら何の気なしに窓の外を見た木菟は、少し顔を顰めた。
窓枠に、昨日見たアシダカグモとそっくりな蜘蛛が足をかけて顔を出していたのだ。
「…外側だし、いいか。」
木菟が立ち去った後も、蜘蛛はそのままの位置でじっとしていた。
ー
それからというもの、経凛々は毎日のように六花に通うようになった。
少女もまたそれが分かっているかのように、いつも六花にいた。
彼女の名は芦田というらしかった。少し前にこの街に越してきたのだという。
経凛々も色々と自分の事を話した。
名前は木菟に倣って、言の葉という偽名を使った。和歌を表す美しい日本語だ。それは美子や木菟も承知の上だった。
芦田は経凛々を兄のように慕っているようだった。また経凛々も芦田を妹のように見ている節が見られた。
そんな風に純粋に慕い合う彼等の態度は、とても好ましいものであった。
ー
「今日は芦田さんと星を見に行くんです。」
芦田と出会って2週間ほど経ったその日、経凛々は生き生きとした様子で身支度をしていた。
「いいですね。この辺は田舎だし、冬で空気も澄んでいるからきっと綺麗に見えるでしょう。」
木菟は経凛々を振り返り、微笑んだ。
「中々乙じゃあないですか。」
鞄に荷物を詰め終えた経凛々は、照れたように頭を掻いた。
「前に木菟先生に連れて行ってもらった場所、あるじゃないですか。あそこから見えるオリオン座を、どうしても彼女に見せてあげたくて。」
木菟は頷いた。
「いってらっしゃい。気を付けて。」
経凛々は会釈して、家を出た。
ー
待ち合わせ場所のバス停には、既に芦田の姿があった。
芦田は経凛々の姿を見つけると、満面の笑みで手を振った。
小走りで芦田の元に駆け寄り、経凛々は言った。
「すみません、女性を待たせてしまうなんて。」
「大丈夫。私も今来たところ。」
芦田は経凛々の腕に抱きついた。
「行こ、言の葉さん。」
「はい。」
2人は寄り添って歩き始めた。
目的地はここから歩いて1時間弱はあるのだが、2人はそんな長さはまるで感じていないようだった。
しかし体力は減るもの。幸い時間はたっぷりあるので、道中に見つけたベンチに2人並んで腰掛けた。
経凛々は改めて芦田を見た。
本当に美しい。見る者を惹き付けて止まない魅力が、そこにはあった。
「なんだか芦田さん、前に見た時より綺麗になりましたね。」
芦田は驚いたように経凛々を見、照れ臭そうに笑って彼の肩に寄りかかった。
「今日はいつもよりお洒落したからかな?」
「そうですか。そういうものですか…。」
…それにしても、だ。
やはり何だか変わった気がしてならない。しかしあまりしつこく聞くのも何だ。彼はそれ以上の追求を止めた。
「…ねぇ」
不意に芦田が尋ねた。
「言の葉さん、私が綺麗になったら嬉しい?」
「え?それは勿論。尤も、今も十分綺麗ですがね。」
経凛々が答えると、芦田は何も言わずに彼の手を強く握った。
「…。」
彼は戸惑った。
その戸惑いを隠そうと、立ち上がる。
「そろそろ行きますか。」
「うん。」
2人は再び歩き始めた。
ー
2人が目的の土手に着く頃には、既に辺りは闇に覆われていた。
そして上を見上げれば、満天の星空。
「冬の星空は良いものでしょう。」
「本当…。」
しんと冷え切った空気の中で、小さな瞬きを見せる星々は、何とも風流なもので。
冬の寒さによる、身体の千切れるような痛みも、しばし忘れてしまえるような代物であった。
「ほら、あれがオリオン座です。」
「オリオン…?」
4つの明るい星の中に、3つ連なって輝く小さな星。
「有名な冬の星座です。私の好きな星座です。」
「へえ…。」
隣から、ため息のような声が漏れた。
「こんなに星をしっかり見たのは初めて。」
「芦田さんは、初めてがいっぱいですね。」
経凛々は笑った。芦田も微笑んで、地面に腰を下ろした。
それから2人は黙って、暫く星を眺めていた。
どちらからともなく「帰ろうか」と言い出した頃には、時計はもう10時を回っていた。
静かな空気の中、話すのは何だか憚られて、2人は終始無言のままだったが、それはあの星空の余韻に浸っているためでもあった。
暫くして、待ち合わせ場所だったバス停に着いた。
「ここからは1人で帰れますね?」
芦田は少し寂しそうに笑って、手を振った。
経凛々が微笑み、会釈してその場を去った後、1人残された芦田は挙げていた手をぱたんと下ろしてため息をついた。
「…やっぱ綺麗なものが好きなんだ。あの人も。」
彼女は、停車したバスから吐き出された人影を見ながら呟いた。
ー
経凛々が帰ると、玄関に見慣れない革靴があった。
こんな時間に来客とは珍しい。
「只今戻りました。」
「ああ、おかえりなさい。」
盆を持った木菟が、居間に繋がる戸からひょっこりと顔を出した。
「お客様がいらしてるんです。そうだ、経凛々さんも来てください。」
「え?はい。」
木菟についていくと、だらしなくネクタイを結んだ中年の男がソファを占領して座っていた。
男は経凛々の姿を目にすると、懐に手を突っ込んで何か四角い手帳のようなものを取り出した。
それは使い古された警察手帳で、中には今より幾分しっかりした格好をしている男の写真が載っていた。
「警察の方ですか?」
経凛々が尋ねると、男はニヤリと笑って頷いた。
「ああ。この小説家先生のダチよ。」
「お友達になった覚えはありません。」
冷徹にもそう言ってのけた木菟は、淹れてきた茶を一口啜った。
「彼は深山龍二郎刑事です。私を誤認逮捕したトンマ…、失礼、ドジな刑事さんです。」
いつになく辛口である。
しかし深山は全く意に介していないようで、けろりとしている。
「先生、そいつはこないだ言ってたあんたの同居人かい?」
「そうです。紹介がまだでしたね。」
木菟は経凛々の背をぽんと叩いた。
「あ、はい。私…。」
ちょっと迷ってから、彼は言った。
「…言の葉です。木菟先生の身の回りの事をさせていただいております。」
ほう、と深山は頷いた。
「先生、あんたは執事さんを雇ってんのか?」
「いえ。彼は家族です。」
木菟は少し語気を強めた。
「それより、彼にも先程のお話を。私の相棒ですから。」
「ああ。」
どうやら彼は髪切り事件の時に見た木菟の柔軟さを買って、なにか相談に来ていたらしい。
話の内容は、最近この街で多発している謎の突然死についての事であった。
偶然にしては続きすぎるし、被害者には幾つかの共通点があった。
一つは皆が若い男性であること。
また一つはいずれも未婚であること。
最後に、全ての遺体のどこかに小さな2つの穴が並んで空いていること。
「この事件、一般に報道はさせていないんだが…。どうだ、気味が悪いだろう?」
深山は煙草を咥え、火を点けた。
「俺はこの事件に、前回の髪切り事件と同じ匂いを感じたのさ。それでここに来た。」
「いつからです、この事件が起き始めたのは。」
木菟は深山の煙草に茶を垂らし、その火を消した。
ちっ、と舌打ちをして、深山は言った。
「2週間前くらいかね。」
「ふうん…。」
木菟は経凛々を振り返った。
「心当たりはありませんか?」
経凛々は首を振った。
「残念ですが…。」
「そうですか。」
頷き、木菟は微笑んだ。
「…今日はもう休むといいでしょう。疲れているでしょう?」
「はあ…。それでは。」
経凛々は一礼して、自分の部屋に戻った。
ー
布団に横になっても、経凛々の目は冴えていた。
居間で話す深山と木菟の声がよく聞こえる。
『人為的な事件だとすれば、これは普通の事件ではありませんよね。』
『そうだなぁ。またオバケかね?』
軽い口調ではあったが、解決しない事件に参っている様子は感じ取れた。
『先生も気をつけろよ、未婚で若い男。俺は既婚だから平気だがな。』
『私はもうそんなに若くありませんよ。それより、深山さん既婚だったんですねぇ。』
『そうだよ。気づかなかったか、この左手薬指のシルバーリングによ。』
話の内容は徐々に他愛ないものになり、経凛々も少し微睡んできた。
「2週間前…。」
夢うつつで呟いた彼の脳裏に、ふとはっきりとした考えが浮かんだ。
2週間前といったら、芦田と出会った頃ではなかったか。
「…?」
なぜそんな事を考えたのか、自分でも分からなかった。
「…偶然だよ」
こんな物騒な事件に、芦田が関わっている訳がない。あんな、虫も殺せないような少女が。
それなのに、眠りにつくまで芦田と事件が気になって仕方なかった。
ー
翌日の夜、経凛々は六花へ行った。
芦田はやはりそこにいて、彼の姿を見つけると嬉しそうに手を振った。
彼も微笑み、彼女の隣に席をとる。
彼は芦田の綺麗な顔を、まじまじと見つめた。
(やはり思い違いなどではない…。)
確実に美しくなっている。
出会った時よりずっと、昨日に比べてもより増した妖艶さ。
経凛々の視線を感じたのか、芦田は顔を赤らめて俯いた。
「そんなにずっと見られたら、恥ずかしい。」
「…す、すみません。」
芦田のためにミルクティーを注文してから、経凛々は再び彼女に向き直った。
「芦田さん。」
「何?」
少し躊躇して、彼は切り出した。
「最近ここら近辺で起こった、突然死の事件を知っていますか。」
明らかに芦田の表情が変わった。
「…何でそんな話を?」
「せ、世間話です。たまたま昨日うちにお客さんが来て、その話を。」
「そう。」
彼女は窓の外に目を遣った。
「そんな怖いお話はやめない?もっと楽しいお話、しよ。」
「…。」
経凛々は芦田の顔を見た。
「何?いいでしょ、そんな人が連続して死ぬお話なんてしたくないわ。」
彼女の言葉を聞いた経凛々は、辛そうに言った。
「…芦田さん。人が死ぬのが連続であることは、警察内部でしか知られていません。報道もさせていません。」
芦田の顔色が青ざめた。
「昨日来た客人というのは、警察の知り合いです。捜査協力を頼まれたんです。」
経凛々は身を乗り出した。
「お願いします、何か知っている事があるなら教えてください。」
ガタン、と音を立てて、芦田は立ち上がった。
「知らない、私は何も知らないから!そんな話したくないって言ってるでしょ、言の葉さんひどい!」
「あ…。」
彼女はそのまま踵を返し、店を出て行ってしまった。
「どうかしたの?」
顔を上げると、ミルクティーを持った美子が首を傾げて立っていた。
「いえ、何でも…。」
「あの子と喧嘩でもした?」
美子は芦田の座っていた席に座った。
「…私、彼女をいたく傷つけてしまったようです。」
「そうなの。」
美子はミルクティーを一口飲んだ。
「詳しくは分からないけど、幾ら親しくたって喧嘩はするものよ。いちいち気にしてたら持たないわ。」
「でも…。」
もじもじしている経凛々の背中を、美子はぽんと叩いた。
「もしどうしても気になって仕方がないのなら、こちらから謝ってしまえばいいわ。謝られて許さないあの子じゃないでしょう。」
経凛々は頷き、ミルクティー代を払って店を出た。
勿論、芦田を捜しにいくためだ。
ー
芦田は店を飛び出してから、公園のベンチに腰掛けて俯いていた。
経凛々のことを後悔しているようで、時折ため息を漏らしていた。
どうしてこんな風になっちゃったんだろう。やっぱり私のせい…よね。
それなら、解決は簡単。
「もっと綺麗にならないと。綺麗になって、言の葉さんを喜ばせないと。」
芦田は立ち上がり、道を歩く若い男に目を遣った。
ー
「芦田さん!どこですか、もう一度話をさせてください!」
町中を1時間ほど駆け回って、経凛々は疲労困憊していた。
おまけに冬の夜の身を切るような寒さだ。かじかんで思うように動かない指先を、手袋の上からさする。
「芦田さん!」
声が枯れていた。どうやら風邪を引き込んだらしい。
ふと、道端に何か大きなものが落ちているのが見えた。
「…人だ」
慌てて駆け寄り、抱き起こす。
しかし、既に手遅れのようであった。遺体の手首に、小さな穴が並んで空いている。
気付くと、周囲には同じような状態の遺体が幾つか転がっていた。そのいずれにも、場所こそまちまちであったが同じような穴が空いていた。
「…うわぁぁ」
空気の抜けるような声を上げて、彼はその場に尻餅をついた。
「経凛々さん?」
どこからか声をかけられ、振り向くとそこには木菟が立っていた。
「あ、あれ?木菟先生、何故ここに?」
「深山さんに頼まれて捜査協力です。また遺体が上がったそうですよ。」
そして経凛々の足元の光景を見て、木菟は言葉を失った。
「これは…。経凛々さん、まさかあなたが?」
「違います!芦田さんを捜していたら見つけたんです。」
「芦田さん…。あの美しい少女のことですね。何かあったんですか?」
経凛々は話すのを少しためらったが、有無を言わさぬ木菟の雰囲気に圧されて口を開いた。
「…彼女、昨日深山さんから聞いた事件のことで、警察の方しか知り得ない事実を知っていたんです。」
「なるほど。」
「それと、何だか彼女、出会った時より美しくなっているんです。」
「美しく?」
「ええ。もとより美しい少女でしたが、最近更に。」
「ほう…。」
木菟は興味深げに頷いた。
「まあ、私の思い違いかも知れませんが。」
そう言って困ったように笑った経凛々に対して、木菟は深刻そうな表情をしていた。
「…この遺体、どうしましょう。」
「私が深山刑事に伝えておきます。経凛々さん、あなたはお行きなさい。芦田さんを捜しに。」
「…分かりました」
その場を去ろうとした経凛々の肩を、木菟は掴んで止めた。
「何ですか?」
「…と」
木菟は一瞬戸惑ったように目を逸らし、眉根に皺を寄せた。
「…蜘蛛に気を付けてください」
一瞬、辛そうに経凛々を見てから木菟はその場を去った。
経凛々には、彼の言葉の真意は量りかねた。
ー
「はあ…。」
夜も更けた。
真っ暗になった公園のベンチで、経凛々は頭を抱えていた。
幾ら捜しても、芦田は見つからない。
木菟と深山はどうしただろう。犯人は捕まったのか?
ふと顔を上げると、公園傍の道を歩く男が視界に入った。
駄目元で聞いてみようか?
経凛々は立ち上がり、人影に近寄った。
「あの…。」
人影はふらりと彼の方を向くと、おかしな足取りで近づいてきた。
酔っ払いに声をかけてしまったのか?
まずったなあ、と思っていたが、彼はすぐに異変に気付いた。
街灯に照らされた男の顔は真っ青で、とても生きた人間の顔とは思えないのだ。
「…あっ」
そして彼は見つけた。
男の首に、2つ並んだ小さな穴が空いているのを。
この男は既に生者じゃない!
経凛々がその場を逃げ出した、その時。
「言の葉さん?」
後ろからかけられた、あどけない声。
振り向くと、彼女はいた。
月明かりに照らされた彼女は、この世のものとは思えないほど美しかった。
真っ白な肌に映える赤く艶やかな唇で、にっこりと微笑む。
そして嫋やかに髪をなびかせ、彼の方に駆けてくる。
「言の葉さぁん!ねぇ、私を見て!」
心から嬉しそうに、手を大きく広げて。
「私、こんなに綺麗になったのよ!凄いでしょう?」
踊るように軽やかに走りながら、芦田はくるりと回ってみせた。
そして恐ろしいほどに美しい笑顔を経凛々に向け、言った。
「私が綺麗じゃなかったから、変な事が気になったんでしょ。でも、これでもう大丈夫ね。」
「芦田さん…!」
経凛々の横で、人の倒れる音がした。
「…芦田さん。これはあなたが?」
彼は静かに尋ねた。
対して、芦田は無邪気に頷いた。
「そうだよ。こうすると私、綺麗になれるの。だから私、あなたのために…。」
その時、芦田の声が不自然に途切れた。
同時に彼女の腕は力を失い、差し伸べられた手は傍に下ろされた。
「…芦田さん?」
不審に思った経凛々が、倒れかかった彼女の肩を掴んで支える。
驚いたように目を見開いた表情のまま固まっている芦田の眉間に、ぽつりと穴が空いている。
経凛々は顔を上げた。
目に入ったのは、腰を落として銃を構えた深山とその傍に立つ木菟だった。
「…すみません、言の葉さん。後を尾けさせていただきました。」
声も出ない様子の経凛々に、木菟は言った。
「あなたを尾ければ、芦田さん…。いえ、『女郎蜘蛛』が向こうから姿を現してくれると思いましてね。」
「女郎蜘蛛…?」
木菟は頷いた。
「美しい女性の姿をとって男をたぶらかし、喰らってしまう蜘蛛の妖怪です。」
「つまり…。芦田さんがそれだと?」
「ええ。」
「そんな…。」
経凛々は芦田の身体を抱き寄せた。
「言の葉…さん。」
その時、芦田が絞り出すような声で呟いた。
「芦田さん⁉大丈夫ですか!」
芦田は微笑み、ゆっくり首を振った。
「もう…、駄目みたい。」
「ああ…。どうしよう、ごめんなさい、私があの時変な事言ったりしたから…。」
うろたえる経凛々の頰に手を当てて、芦田は言った。
「いいの…。言の葉さん、間違ってないもん。」
そしてゆっくり目を閉じ、続けた。
「本当は私、分かってた…。自分が間違ったことしてるの。でも、言の葉さんは綺麗なものが好きだから。私が綺麗になったら嬉しいって言ってくれたから。喜んで欲しかったの。」
経凛々は自分の安易な発言を心底悔やんだ。
「芦田さん、私は…。」
「言の葉さん、蜘蛛嫌いでしょ。」
「?」
唐突な質問に戸惑う経凛々。
芦田は笑った。
「嫌いだよね。あの時も言ってた。でも、諦めきれなかったの。だから身の上は隠してた。本当の事なんか言ったら嫌われちゃうもん。隠しててごめん。」
胸が締め付けられるようで、黙っていられなかった。
自分は人間の真似をして芦田の心を弄んだ、惨めな化け物だ。詐欺師だ。
そんな思いが渦巻いて、仕方なかった。
「芦田さん、私もあなたに言わなければならない事が…。」
芦田はそんな経凛々の口を押さえた。
「助けてくれたのがあなたで良かった、経凛々さん。」
「…!」
分かっていたのか、私が何者か…。
経凛々は微かに呟いた。
がくりと首を落とした芦田の亡骸は、みるみるうちに干からびたアシダカグモの死骸へと姿を変えていった。
死骸は突風に吹かれ、経凛々の手をすり抜けて何処かへ飛ばされていった。
「想い人の喜びを求めて生きた女郎蜘蛛…、ですか。」
経凛々が顔を上げると、いつの間にかそばに来ていた木菟が手帳を手に立っていた。
「儚きこと露の如し、男と蜘蛛の物語。」
「物語…。物語だと⁉」
経凛々は立ち上がり、木菟の手帳を叩き落とした。
「人の気持ちを何だと思っている!」
彼は地面を蹴った。
いつもはあまり取りたがらない、経凛々本来の姿になった彼は、木菟を一瞥するとそのまま何処かへ飛び去った。
「…私、彼を怒らせてしまいましたかね?」
困ったように首を傾げる木菟に、拳銃をしまった深山が声をかけた。
「…先生。今のはマジでないぜ。」
「え?」
煙草を咥え、ふっと白い煙を吐いた深山は木菟の肩を叩いた。
「女の気持ちが分からないだけならまだいいが、人の気持ち全般に鈍いのは考えものだ。」
帰ってくるのか、あいつ。
そう尋ねた深山は、経凛々本来の姿を見ても大して驚いていないようだった。
「まあ、恐らくは。今日はこれから雨が降りますから、その前に帰ってくるでしょう。」
「…そうかい。俺は遺体回収の仕事が残っているからまだここに残らにゃならんが、先生はもう帰るといい。見つかると色々面倒だ。」
深山は片手を上げ、去った。
1人佇んでいた木菟は、地面に落ちた手帳を拾った。
「…人の気持ちが分からない、か。」
足元の遺体に手を合わせ、彼は経凛々の飛び去った空を見上げた。
青白く燃えるオリオン座の星々を繋ぐように、翼を広げて何度も往復する小さな影が見えた。