木菟の映る水鏡
冬堂美子は、小さな喫茶店を1人で経営する逞しい女性だ。
そんな彼女は店の二階に独り住いで、家事も仕事も全て1人でこなす。
その疲れによる苛々を客にぶつける事もせず、常に笑顔を絶やさない器の大きな女性。それが冬堂美子だ。
そんな彼女の楽しみは、週に一度やってくる客によってもたらされる。
文筆業を生業とするその客は、世間から見れば相当な変わり者。
売れもしない小説を書いては、一部の好事家から届く僅かな感想に顔を綻ばせている。
まともな人間からすれば馬鹿にしか見えない生き方だが、本人が気にしていないのだから改善のしようがない。
そんな彼と話す日曜の昼下がりは、美子にとってとても貴重な、息の詰まりそうな日常を忘れさせてくれる時間なのである。
今日も彼女は前掛けを手洗いしながら、冷えた指先に息を吹きかけた。
水を張った桶に前掛けを入れ、適度に力を入れて擦る。
「中々しぶとい染みになるのね、コーヒーって。」
独り言を言いながら、時計を見る。夜中の2時を少し回ったところか。
ふと、ある占いの方法が脳裏を過る。
少女時代に流行った、水鏡の占い。
深夜2時、口に刃物を咥えて水鏡を覗くと、未来の夫の顔が分かるという他愛のない占いだ。
「よし…。」
おあつらえ向きに、水鏡もある。
美子は洗面所から剃刀の刃を持ち出し、口に咥えた。
そして、水鏡を覗き込む。
「…。」
勿論、水鏡には何も映らない。
何やってるのかしら、私。急にこんな事始めて。きっと疲れているのね。
自分のしている事が可笑しくなってしまい、顔を引っ込めようとしたその時。水鏡の表面が揺れた。
「!」
驚いた美子はその場に硬直してしまい、水鏡から目が離せなくなってしまった。
水鏡の表面の波が治まっていく。
本物の鏡のように平らなその面に映り込んだ顔に、美子はひどく驚いた。
「先生…!」
思わず呟いた彼女の唇から、剃刀の刃がこぼれ落ちる。
「あっ!」
刃は水鏡の中に落ち、その表面に波紋を作った。
「…!」
瞬間、透明だった水が赤黒く濁った。
慌てて落ちた刃を拾い上げ、恐る恐る水鏡を覗く。が、その時は既に何ともなく、透明な水に強張った表情の自分が映っているだけだった。
「気の所為、よね…。」
やっぱり疲れているんだわ。今日はもう休みましょう。
美子は桶の水を流し、床についた。
ー
翌朝、美子は今ひとつすっきりしない気持ちで目を覚ました。
「…嫌だ、もうこんな時間!」
開店30分前。いつもならもっと余裕をもって起きるのに。美子は唇を噛んだ。
急いで店の支度を済ませ、美子は前掛けを締めた。そこで、昨晩落としきれていなかったコーヒーの染みに気付く。
「仕方ないわ、新しいのをおろしましょう。」
彼女は溜息をつき、前掛けを外した。
昨晩の出来事が、気になって仕方なかった。
店が開くと、待ち兼ねたような様子で晴明が飛び込んできた。
「おはよ、女将。」
「おはよう。あら、今日はしっかり制服着てるじゃない。髪も梳かしてあるみたいだし。」
晴明は顔を赤くして、席についた。
「べ、べつに普通だし。それより女将、いつもの。」
「はいはい。ブラックコーヒーとバニラアイスね。」
相変わらず素直でない晴明を微笑ましく思いながら、美子はコーヒーを淹れた。
「で…。女将。」
「何?」
指先でカウンターをトントン叩きながら、晴明は言った。
「その…。今日はあのおっさん来ないの?」
どうせ最初からそれが本題だったのだろう。彼は美子の目を見つめていた。
「そうね…。今日は金曜だから、来るなら明後日よ。」
「そう。」
晴明は少し残念そうだった。
「…会いたい?」
美子が尋ねると、彼はぶんぶんと首を振った。軽い脳震盪を起こしそうなほどだ。
「そう?一応念の為に言っておくけど、先生が来るのは日曜のお昼過ぎよ。」
ふーん、と興味なさげな返事だが、耳はしっかり美子の方を向いているのが分かる。
「はい、コーヒー。」
コーヒーをカウンターに出そうと、美子はマグカップに目を落とした。
そして、愕然とした。
コーヒーの表面に、人影が映っている。
その場にいるはずのない、「彼」の姿。その頰はまるで鋭利な刃物で切りつけられたかのように切り裂かれている。
「嫌っ!」
恐ろしくなり、カップを払いのける。
陶器の割れる音と、晴明の声がした。
「女将っ、どうしたんだよ⁉」
「水鏡がっ、水鏡がっ…!」
晴明はカウンターを乗り越え、美子の身体を揺すった。
「女将、しっかりしろよ!水鏡って何だよ、おい!」
我に返った美子の目に映ったものは、心配そうにこちらの顔を覗き込む晴明と床に散乱したコーヒーカップの残骸。
「あ…、えっと。」
美子は慌てて笑顔を繕い、言った。
「…何でもないのよ。そう、何でもないの。」
「何でもないって…。」
まるで自分に言い聞かせるかのようにして繰り返す美子を、晴明は不安気に見つめた。
「…働き詰めで疲れてるんじゃないの?たまには休んだらいいじゃん。言ってくれれば、俺も店手伝う事くらい出来るし…。」
美子は微笑んだ。
「気持ちはとてもありがたいけれど…。晴明君には自分のやるべき事があるでしょ。」
晴明は曖昧に頷いて、席に戻った。
「…女将。」
「何?」
立ち上がった美子は、散らかった床を片付けながら答えた。
「さっき言ってた水鏡って、何の事?あんなに慌ててたんだから、何でもないって事はないだろ。」
美子は戸惑った。そして、覚悟を決めたように口を開いた。
「昨日の晩にね、悪戯半分に水鏡の占いをやってみたのよ。将来の結婚相手が分かるっていう。そしたら本当に男の人の顔が映って…。」
晴明は頷いた。
「なんか聞いた事ある気がする。こんな話もあるよな。」
「え、どんな?」
美子は思わずカウンターから身を乗り出した。
「うん。ある女がその占いやって、本当に男の顔が映ったんだよ。女はびっくりした拍子に口に咥えてた刃物を落としちまってさ。そしたら水が赤く染まったから、気味悪く思ってたんだ。そんなことも忘れかけた頃、女は結婚したんだ。結婚相手は優しくて、最高の旦那だったんだけど、なぜかいつもマスクを外さなかったんだ。それで、耐えきれなくなった女は旦那に聞いたのさ。『どうしてあなたはいつもマスクをつけているの?』って。旦那は答えた。『昔ある人に酷く傷つけられてしまって、人に見せられる状態じゃないんだ』と。女は、『誰がそんなひどい事を?』と尋ねた。すると旦那はマスクを外し、ざっくりと開いた傷痕を見せて言ったんだ。」
そこで晴明は一息ついた。
「…何て言ったの?」
不安気に尋ねる美子を見上げ、大きく息を吸い…。
「…『お前にやられたんだあああ‼』」
「キャーッ‼」
突然の大声に、美子は驚いて尻餅をついた。
その様子を見て、晴明は笑いながら言った。
「ごめんごめん。結構有名な話だと思ったんだけどな。今時この話でそんないいリアクションとれるの、多分女将だけだぜ。」
「もうっ、晴明君たら意地が悪いわ。」
美子は頰を膨らませ、ふっと息をついて笑った。
しかし、彼女は不安だった。
もし晴明君の言う怪談が事実だとしたら、先生の顔はどうなってしまったのかしら…。
「…ねぇ、晴明君。」
「何?」
「そのお話って…、本当?」
晴明は面喰らった様子をしていたが、突然弾けるように笑い出した。
「あはは、俺ってそんなに話上手かった?」
「え?」
呆然とする美子に、晴明は言った。
「作り話だよ、作り話。本とかでよくあるタイプのね。」
そして、ぺろっと舌を出した。
美子は安心して胸を撫で下ろした。
「良かった。それじゃやっぱり、私疲れてたんだわ。」
「そうだよ、水鏡にその場にいない人間が映るなんて。」
そこで、晴明はふと尋ねた。
「…そういえばさ、女将の水鏡に映った気がしたのって誰だったの?もしかしてあのいけ好かないおっさんじゃないだろうな?」
美子の心臓が飛び上がった。
しかし、平静を装って答える。
「まさか、先生な訳ないでしょ。あの人はただの常連さんなんだから。」
「じゃあ誰?」
「ふふ、内緒よ。女の秘密。」
美子はカウンターにバニラアイスを出した。
晴明は多少不満気な様子を見せながらも、その白く丸い山をスプーンで崩し、せっせと口に運び始めた。
その様子を見ながら、美子は明後日の日曜日を待ち遠しく思っていた。
一抹の不安と共に。
ー
心ここに在らずといった様子で土曜日の仕事を終え、迎えた日曜日。
1秒が1時間にも感じる。
昔の人々は、こんな思いから一日千秋という言葉を作ったのだろう。
そんな事を考えていると、壁掛け時計がオルゴールの音楽を奏で始めた。1時だ。
「先生、そろそろ来るかしら。」
ドアベルが鳴る。
「こんにちは。」
現れたのは、紺碧の着物を身にまとった優男。木菟だ。
「先生!」
堪えきれず、カウンターから出て店の入り口に駆け寄る。
「美子さん?どうされたのですか?」
その顔には、大きな絆創膏が貼られている。
顔から血の気が引いていくのが、自分で分かった。その場に崩れ落ちる。
やはり本当だったんだわ。水鏡の怪談。先生の顔に醜く傷をつけたのは、この私…。
暫く顔を上げることが出来ず、彼の着物の裾を掴んで震えていると、不意に彼が屈みこんで美子の顔を覗き込んだ。
「顔色がよくありませんな。体調が優れないのですか?」
「い…いえ、なんでもありませんわ。」
木菟に支えられながら、何とかカウンター内に戻った美子は、恐る恐る尋ねた。
「あの…。先生、お顔はどうされましたの?」
「ああ、これですか。」
彼は恥ずかしそうに微笑んだ。
「この間家にお迎えした蜥蜴の桜華さんに、硝子のケースを買いまして。しかし私の不注意で割ってしまい、飛び散った欠片で切ってしまったのです。」
いやはや何ともお恥ずかしい、と笑う木菟を見て、美子は何とも言えない気持ちに囚われていた。
あの怪談のような展開にならなかったのは良かった。しかし、偶然にしては出来すぎている。どうしても不安が拭い切れない。
美子のそんな様子を見て、木菟は怪訝そうな顔をした。
「…嫌な話でしたか?」
「えっ!い、いえ、そんな事ありませんわ。」
「…それならいいのですが。」
その時、またドアベルが鳴った。晴明だ。
「あら、晴明君?」
晴明は美子に手を振り、木菟の隣の席についた。
「今日はどうしたの?先生に会いに?」
「べ、別に。たまたまだし。」
ちらりと木菟の顔を見た晴明は、大きな絆創膏を思わず二度見した。
「わ、おっさん!どうしたの、喧嘩でもした?」
木菟は目をぱちくりとさせて、それからにっこりと笑った。
「私は平和主義者ですよ。」
ふうん、と晴明はしばらく木菟の顔を見ていたが、やがて何かに気付いたかのように立ち上がった。
「どうしました?」
「…ちょっと来いよおっさん」
言うが早いか、晴明は木菟の着物の袖を掴み、店の外へと引きずり出した。
ー
「な、何のつもりですか、いきなり。」
急な出来事に驚き慌てながら、木菟は晴明に尋ねた。
「おっさん、そのキズバン取れ。」
「え…。」
「いいから!」
晴明は木菟の頰の絆創膏に手をかけ、一気に剥がした。
「ひっでぇ…!」
そこには、まだ乾ききっておらず、グロテスクな光沢を放っている切り傷が白い肌と赤のコントラストを作っていた。
「…これ、どうしたんだよ?」
「ガラスケースを割った欠片で…。」
「ガラスでこんなんなるかよ!」
木菟は黙った。
「俺さ、金曜に女将んとこ来て水鏡の占いの話を聞いたんだ。」
「水鏡…?あの、口に刃物を咥えてやる占いの事ですか?」
晴明の言葉に、木菟が反応した。
「そう。女将、悪戯半分にやってみたんだって。未来の旦那を占うために。そしたら本当に映ったんだって。それで俺、誰が映ったのか聞いたんだ。おっさんかって。女将は違うって言ってはぐらかしたけど、やっぱりおっさんだったんじゃないかと思う。」
「どうして?」
「俺、水鏡の占いの怪談を女将に話したんだ。おっさんも知ってるだろ?お前だーってオチのやつ。」
頷き、木菟は先を促した。
「それで?」
「…その時の女将の様子、何かおかしかったんだ。妙に落ち着かないっていうか、不安気っていうか。」
「なるほど。」
木菟は晴明を片手で制し、微笑んだ。
「事情は大体分かりました。」
「え、どういう事?」
絆創膏を貼り直し、木菟は話し始めた。
「晴明さんの言うとおり、これは硝子で切った傷ではありません。恐らく美子さんが水鏡を行っていたであろう時間帯、私は白い原稿用紙の前で座っておりました。そして、流石に眠くなったので歯を磨きに洗面所へ行ったのです。私はコップに水を注ぎ、口に含もうとそれを傾けました。すると、不思議な事にコップの中からいきなり剃刀の刃が飛び出して来て、私の頰を切りつけたのです。」
「ウソだろ…。」
驚愕の表情を浮かべる晴明。
木菟は続けた。
「私が急いでコップの中を確認すると、一瞬女性の驚いたような顔が見えたのです。あれは美子さんだったのですね。美子さんが気分を悪くすると思い黙っていたのですが…。因みに剃刀の刃はどこにも落ちていませんでした。」
仮説ですが、と木菟は顎に手を添えた。
「美子さんの水鏡に私が映ったのは、丑三つ時という時間帯に、関係をもつ者同士が作った水鏡が2つ揃い、繋がったからではないでしょうか。人と人との繋がりは、時に不思議な現象を引き起こすものです。」
「じゃあ、未来の旦那が映るってのは…。」
「それこそ噂話でしょう。所詮人間、未来が分かるなんて事はありません。」
晴明も何か気になる点があるようだが、頷いた。
その様子を見ていた木菟は、彼に言った。
「試してみましょうか?」
ー
店内に戻った木菟は、晴明から聞いた事、水鏡についての自分の見解を全て美子に話した。
「そうですか。それじゃやはりその傷は…。」
「いえ。美子さんが悪いのではありません。」
木菟は頰に手を当てた。
「これは、人の縁の賜物です。むしろ大事にしなくては。」
「…。」
すっかり沈んでしまった雰囲気を何とか取り戻そうと、晴明は努めて明るく切り出した。
「それでさ。おっさんの言ってた『確かめる』ってどういう事?」
「ああ、はい。」
木菟は微笑んだ。
「今日の夜中の2時、私達3人でこの店に集まって水鏡をやってみましょう。今回は美子さんに見届け人をしていただきます。お願いできますか?」
美子は頷いた。
「ええ。勿論ですわ。」
ー
夜中の2時。
「はあー、おっさん俺が夜間徘徊常習者じゃなかったらどうするつもりだったんだよ。」
晴明が大きな欠伸をしながら言った。
「その時は私と美子さんでやっていました。」
「それは許さねぇ」
木菟と晴明の絡みに、美子はくすっと笑った。
「ま、晴明君たら!」
美子の緊張もすっかりほぐれている様子で、木菟は内心ほっとした。
「それでは美子さん、水鏡と剃刀を下さい。」
「分かりましたわ、どうぞ。」
美子はカウンターに剃刀と水鏡を2人分、それぞれ置いた。
「行きますよ、晴明さん。」
「おうよ。」
2人は同時に剃刀を咥え、水鏡を覗き込んだ。
20秒ほど経っただろうか。
「まあ!」
美子は驚いた。
2人の水鏡に、それぞれ相手の顔が映っている。
「これがもし未来の伴侶の顔なら大変です。」
木菟は剃刀を机に置き、笑った。
「そうだな、冗談じゃねぇ!」
晴明も剃刀を放す。
すると水鏡の中の人影は消え、瞬く間に元に戻った。
「美子さん、ご安心ください。あなたを妻とする方は、私なんぞよりずっと優れた方ですよ。」
「先生…。」
美子は頷き、微笑んだ。
本当は、こっそり用意した自分の水鏡に映る木菟の姿も気になっていたし、晴明の水鏡に映っている可愛らしい少女の事、そして自分の位置からだと丁度見えない木菟のグラスに映った人影の正体も、気になってはいたけれど。