木菟に蠱毒

木菟の朝は遅い。
夜型の人間であるため、昼はどうしても眠くなってしまうのだ。
しかし、日曜の昼の日課は欠かさない。
彼は真っ白な原稿の前を離れ、マフラーを巻いて外へ出た。
外の冷え込みは一段と強くなっており、木菟の眉間にも自然と深い皺が刻まれる。
通い慣れた道をゆっくりとした足取りで歩いていくと、いつもの店先が見えてきた。
「喫茶・六花」。
木菟の日曜日は、ここから始まる。

擦り硝子の扉を開くと、いつもと同じ美子の笑顔が出迎えてくれた。
「そろそろいらっしゃる頃だと思っておりましたわ。いつもより少し遅いくらいかしら?」
「今朝は寒かったものですから。つい寝過ごしてしまったのです。実にお恥ずかしい…。」
美子は上品に笑った。
「いつものココアでいいかしら?」
「ええ。お願いします。」
ココアができるのを待つ間に、店の客が1人増えた。
学ランを着崩した、高校生くらいの少年だ。
少年はちらちらと木菟を見ていたが、視線に気付いた彼が振り向くと慌てて目を逸らした。
「美子さん、あの方は?」
木菟は声を潜めて、カウンターの美子に尋ねた。
美子は少年を見ると、ああ、と溜息にも似た声を漏らした。
「ちょくちょく1人で来て、ブラックのコーヒーとバニラアイスをいつも頼むんですの。平日の朝の時間帯にもたまに来てるから、学校もさぼっているのかもしれないわ。服装も崩れているし…。少し心配ですわ。」
少年に聞こえないよう気を遣いながら、美子は言った。
「人は見かけによらないものです」
木菟は呟くように言った。
「私は、彼は面白い方だと思います。何となくそんな気がするのです。」
美子はまじまじと木菟の目を見た。
「先生はやっぱり変わった方ですわ。」
「褒め言葉として受け取っておきましょう。」
木菟は悪戯っぽく笑った。
その日は他愛のない話をして、彼女と別れた。

「…ちょっと、おじさん。」
帰り道、後ろから呼び止められた木菟が振り返ると、先程の不良風の少年が立っていた。
「…私ですか?」
少年は頷き、木菟に歩み寄ってきた。
「おじさんさ。六花の女将さんとどういう関係?」
「関係と言いますと…?」
彼が首を傾げると、少年は何か言いたげにしながらも踵を返し、去っていった。
「…やはり面白い方ですね。」
木菟は微笑み、再び歩き始めた。
彼が原因不明の頭痛と寒気、倦怠感に襲われ始めたのは、その晩のことである。
元々風邪をひきやすい質なので、そちら方面を疑ったが、検温してみると熱がない。喉も痛くはなく、咳も出ないのだ。
「ああ寒い…。美子さんのココアが恋しいなぁ。」
いつもより早めに布団を敷き、その中に潜り込んで目を閉じる。
昼間見た少年の顔が、何故か目の前をちらついて離れなかった。

一週間後の日曜日。
倦怠感は更に増していた。身体を起こすのも億劫だ。
無理やり起きると、背中がきりきりと痛む。
「私も歳をとったのかなぁ…。」
「まだ30代前半の方が、何を仰るの?」
笑いを含んだ声に振り向くと、そこには美子が立っていた。
「いつまで経ってもいらっしゃらないから、心配になって来てみたんですの。玄関が開いていましたわ、先生無用心でいらっしゃるのね。」
木菟は腕時計を確認し、ああと頷いた。
そして、照れ臭そうに頭を掻いた。
「いや、こんなあばら家にわざわざ入る盗人もないでしょう。周りに幾らでも良さそうな家はありますから。」
「まあ!」
美子は木菟の枕元に腰を下ろした。
「ご病気ですの?それとも私のところに来るのが面倒におなりになって?」
「まさか。美子さんのところへ行くのは毎週の楽しみですよ。」
冷え切った空気の中に、2人の吐息だけが白く立つ。
「最近、どうも怠くて。寒さの所為か、はたまた歳の所為かと悩んでいたところです。」
困ったように眉を下げた彼を見て、美子は立ち上がった。
「私、何かしましょうか。先生お一人ですから、何かと不便でしょ?」
「そうですか。それでは、折角ですのでお願いしましょうか。」
美子は嬉しそうに頷き、台所へと歩いていった。
「お昼まだでしょう、台所が綺麗ですもの。」
「ええ。そういえば、ここのところまともな食事は摂っていませんね。」
美子の心配そうな声が飛んできた。
「嫌ですわ、先生。食事くらいしっかり摂らないと、体調は良くなりませんわ。」
「普段はしっかり自炊していますよ。私の作れる品が少ないので、変わり映えのしない食卓ではありますが。」
言い訳めいた木菟の言葉を、美子は微笑ましく聞いていた。
「とにかく今日はゆっくり休んで、体力をつけることですわ。私、お粥でも作ります。」
「お願いします。ご飯は冷蔵庫に余っていますので、それを使ってください。」
「分かりました。おかずも何品かお作りしますね。」
野菜を切る音と共に聞こえてくる美子の鼻歌は、耳に心地良かった。
しかし突然その鼻歌が途切れ、代わりに短い悲鳴が上がった。
「どうされました、美子さん!」
身体の痛みも忘れ、木菟は台所へ走った。
見ると、ガスコンロの前で美子が何かに怯えたように立ち竦んでいる。
「何かあったんですか?」
「お、お粥の中から…。」
震える指で示す先を見て、木菟もまた喉の奥で小さく唸った。
火にかけられた鍋の中に、白い粒が煮立っている。
一瞬米かと思うが、粒はそれぞれ身を捩るようにして蠢いていた。
「蛆…。」
鍋の中では、米と一緒に小さな蛆がひしめき合っていた。
「冷蔵庫から出した時は普通でしたのに、火にかけてしばらくしたらこんな…。」
怯える美子を宥めていた木菟の足に、何かが触れた。
見ると、大きなアシダカグモが数匹彼の足首にまとわりついていた。
ひゃあ、という情けない悲鳴を上げ、美子にしがみ付く木菟。
その声に驚いたのか、アシダカグモ達は素早くその場から散った。
「先生!」
「…え?…あ、美子さん。」
彼は慌てて美子から離れ、深々と頭を下げた。
「申し訳ない、つい度を失ってしまって。」
「いえ、お気になさらないで。それよりこの蛆、片付けないと…。」
美子は鍋をとり、内容物をゴミ袋に落とした。
「蜘蛛、駄目ですの?」
「ええ、まあ。虫は基本大丈夫なのですが、蜘蛛と蜚蠊だけはどうも…。」
しかし、と木菟は腕を組んだ。
「この季節に、しかも屋内にこんなに沢山の虫が湧くのは不自然ですね。」
「そうですわね。蛆だって、湧き方がおかしかったわ。」
木菟はしばらく黙って目を瞑っていたが、やがて何かに気付いたように目を開け、ふっと笑った。
「あら、どうかなさったの?」
訝しげに尋ねる美子に、木菟は言った。
「美子さん、蠱毒という呪法をご存知ですか?」
「蠱毒?名前くらいは聞いたことがありますけど、よくは知りませんわ。」
木菟は頷いた。
「そうですか。それでは簡単に説明させていただきますね。」
彼は、食器棚から蓋のついた硝子の容器を取り出した。
「蠱毒という呪いに必要なのは、中を密閉できる容器です。」
彼は冷蔵庫を開け、卵を2、3個取り出した。
「それと、複数の命あるもの…。虫や爬虫類などを使う事が多いです。」
卵を割り、硝子の容器に落として蓋をする。
「容器の中にそれらの生き物だけを入れて閉じ込めておくと、彼等は共喰いを始めます。」
硝子の蓋を取り、容器に落とした卵を箸で掻き混ぜる。
「すると必然的に、1匹の強い個体が残ります。」
掻き混ぜられて一つになった卵を、木菟はフライパンの上に落とした。
「他の個体を取り込んで内部に力を溜め込んだ個体は、強い呪いの力を持つようになります。」
フライパンを熱し、卵を端から巻いていく。
「こうして出来上がるのが蠱毒。生き物の生命力を使った、簡単ですが恐ろしい呪いです。」
出来上がった卵焼きを皿に乗せ、ヘラで一口の大きさにカットして彼は言った。
「その個体を使い、呪いの対象者へ色々な害を及ぼすのです。」
彼は卵焼きの一切れを口に入れた。
そして、ひどい顰め面をした。
「…砂糖を入れるのを忘れてしまったようです。それはさておき、お分かりいただけましたか?」
「ええ。とても分かりやすかったですわ。」
美子も卵焼きを口に入れ、くすっと笑った。
「それで…。その蠱毒がどうかしましたの?」
木菟は蛆の粥の捨てられた袋を見ながら言った。
「蠱毒による災いの例には、虫に関連するものが多いのです。」
彼がそこまで話した時、彼の頭の上に何かが落ちてきた。
それは灰色の小さな家守だった。
上を見上げた美子が小さな悲鳴を上げる。
木菟がその視線を追うと、すぐにその訳を知る事ができた。
天井を覆い尽くす、小さな家守の大群。白い天井を灰色に染めて、家守が張り付いていた。
「このように、おかしな現象を幾つも引き起こすのが蠱毒です。」
彼は強張った笑顔を見せた。
「私はどうやら、蠱毒の標的になってしまったようです。」
「何ですって!」
家守と戯れる木菟を見つめ、美子は大きくかぶりを振った。
「信じられない…。先生のような方に呪いをかける人間がいるなんて。」
次の木菟の言葉は、美子を更に驚かせた。
「人は知らないうちに他人の恨みを買っていたりするものです。私にはもう、蠱毒を使った人間の見当はついています。」
「まあ、誰ですの?」
尋ねる美子に向かって、木菟は微笑んだ。
「はい。それはですね…。」
その時、突然木菟が頭を抱えて呻いた。
「先生!大丈夫?」
「…どうやら蠱毒の主は、正体をあまり知られたくないようですね。」
彼は額に汗を浮かせていた。
「美子さん。一つ頼みがあるのですが。」
「何でも仰って。私に出来る事ならお手伝いしますわ。」
木菟は大きく頷いた。
「そうですか。それは心強い…。それでは、頼み事をメモにまとめてきますので。」
彼はふらつく体を何とか支えながら、居間へと歩いていった。


数日後。
六花のカウンターには、制服を着崩した少年が座っていた。
「ブラックコーヒーとバニラアイス。」
無愛想に言うと、美子を見上げた。
「…俺に用事のある人って誰?」
「うーん…。あなたのあまり知らない人かしら?」
その時、六花の入り口のベルがカランと鳴った。
入ってきたのは木菟だ。幾らか血色も良くなっている。
「あの方よ。」
少年は木菟の姿を目にすると、明らかに動揺した。
「おや、そんなに驚きますか。私が無事だと。」
木菟は微笑して、少年の隣に腰を下ろした。
「君、名前は。」
少年は不貞腐れたように口を尖らせた。
「なんでてめぇみてぇなおっさんに言わなきゃ…。」
「名前は」
静かな、しかし力のこもった声に押され、少年は渋々口を開いた。
「…晴明。」
「そうですか。それでは晴明さん、単刀直入にお聞きします。」
木菟は晴明の目を見た。
「君、私に蠱毒を使いましたね?」
少年の目が大きく見開かれた。
「な、何だよ急に!蠱毒って何だよ、俺知らねぇよ⁉おっさんアタマおかしーんじゃねぇの?」
「ちょっと、あなた!先生に向かって何てこと言うの?」
激昂した晴明を、美子が押さえる。
「いいんですよ、美子さん。」
木菟は美子に微笑みかけ、再び晴明に向き直った。
「晴明さん、認めようと認めまいと自由ですが、あなたは中途半端な知識で手を出してはいけないものに手を出したのです。分かっていますか?」
「だから知んねーって…」
「人の話を最後まで聞きなさい」
木菟の静かな怒声。感情をあまり表に表さない彼にしては、珍しいものである。晴明は目を逸らして黙った。
「小動物の命を、悪戯に弄んではいけません。可哀想に、家の裏で保護した時には痩せ細っていました。」
木菟は着物の袖から、20㎝ちょっとの大きな茶色い蜥蜴を出した。
ごつごつした印象のある蜥蜴で、国産でない事は容易に想像できた。
「私が菜っ葉をやったら、凄い勢いで食いついてきましたよ。まだ与えていませんが、この子は虫も、家守も食べるのでしょう?」
晴明は黙っていた。
「この子からの私に対する意志はもうありません。私は単にに食料を与えただけの人間ですから。」
カウンターに置かれた蜥蜴は、不思議そうに首を傾げていた。
「さて、どうしますか?私はあなたの名前を知り、かつ呪物を持っている。つまり呪い返しができます。」
晴明の顔が一気に青ざめた。
「呪い返しを受けるか、ご自分のした事を素直に認めるか、どちらかになさい。」
晴明は項垂れた。それが答えだった。
「女将に憧れてたんだよ、俺。」
晴明はぽつりと呟いた。
「見て分かると思うけど俺、不良だし。父さんも母さんも俺を見放してる。でも、女将は俺によくしてくれたんだ。他の人と同じように扱ってくれたんだ。…そりゃ客だから当たり前って思うだろ?でも、女将からは俺の事心配してくれてるのが見えた。」
美子は口に手を当てて、晴明を見ていた。
「俺、それで勝手に浮かれてたんだ。俺の事気にしてくれる人がいるって。その矢先、おっさんが出てきて。女将の事名前呼びしてるし、親しげだし…。深い仲なのかと思ったら、なぜか憎らしくなって。」
「それで蠱毒を使って、私を苦しめようと思った…、という訳ですね?」
晴明は頷いた。
「ウチがペットショップだから、生き物は簡単に手に入った。謝って済むような事じゃないかもしれないけど…。後悔してるんだ、ごめん。おっさん。」
「謝るなら私でなく、君の勝手で命を落とした生き物達と、地獄の苦しみを味わったこの蜥蜴さんです。」
木菟は蜥蜴を掬い上げ、晴明に差し出した。
「…すまん。」
晴明は蜥蜴に向かって頭を下げた。
「さて、晴明さん。」
木菟は蜥蜴をカウンターに戻し、晴明に顔を上げさせた。
「誤解のないように言っておきますが、私と美子さんは常連客と店のマスターという普通の関係です。君の考えているような事はこれっぽっちもありません。」
そして、木菟は美子を見上げた。
「ね、美子さん。」
美子も微笑み、頷いた。
「ほら。だから安心してください。」
晴明はバツが悪そうに、冷めたコーヒーを一気に呷った。
「あ、それと。」
「え?」
木菟は晴明のマグカップを指差した。
「あまり無理はしない方がいいと思います。わざわざバニラアイスで苦味を消してまでブラックコーヒーなんか飲まなくても、自然と大人にはなれますよ。」
晴明の顔が真っ赤になった。
「それともう一つ。」
「…何だよ。」
照れ隠しのようにつっけんどんな態度をとる彼に向かって、木菟は言った。
「今回の件では、一応私が被害者ということになります。この件の事を水に流す代わりに、ある条件を呑んで欲しいのですが。」
晴明の表情に緊張が走る。
「…条件て何だよ。」
木菟はいかにも愉し気に、目を細めて笑った。

その日の夜。
木菟は原稿に筆を走らせていた。
中々快調なようで、時々満足気な笑みを浮かべる。
「お陰様でいい作品ができそうです。」
1人呟き、彼は新しく増えた家族の蜥蜴、桜華に微笑みかけた。

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