ざらざらした、その感情は
あるアーティストの個展を観に行った。
その会場に置かれていたフライヤーによると、近くのショップでコラボ展をやっているという。ついでに足を延ばしてみた。
ショップをぐるぐる見ているうちに、「そうだ、たしか他のギャラリーでやっているグループ展にも作品が出ているはず」と思いつき、ついでのついでに行ってみることにした。
こんなふうに、ちょっとしたきっかけで、3つの会場をハシゴすることになった。という話を「Aさん」にしてみたら、こんな答えが返ってきた。
「そういうのって、なんかシラケる」
Aさんがいうには、3つの会場を「ハシゴさせよう」とする「誰かの策略」が見えて、シラケるのだそうだ。
そう感じる人もいるんだな、わたしは得した気分だったけれど、とそのときは思った。けれどそれから数日間、わたしはなにかざらざらとしたものが胸につかえ、なんともじれったいような、どこかすっきりしない気持ちを引きずることになった。
そんなある日、別の友達と会うことになり、わたしは彼女に聞いてみた。
「このざらざらした気持ちは、何だと思う?」
彼女は言った。
「シラケる、という言葉に『悪意』が含まれているから、ざらざらするんじゃない?」
はっとした。胸につかえていたものが、ストンと肚に落ちたような気がした。そうか、Aさんはそれと言わずに「悪意」を言葉に含ませたのだった。
Aさんはそんな気がなかったのかもしれない。でも、わたしが受け取ったものは、小さくてさほど鋭くはないけれど、紛れもなく悪意というものだった。
Aさんは、3会場をハシゴしたわたしを「誰かに踊らされている」と思ったのかもしれない。思いがけず、多くの作品を見ることができて感動していたわたしを「単純だな」と思っていたのかもしれない。
そしてわたしは、Aさんに嫌われているのかもしれない。
もし、わたしが今、10代や20代のワカモノだったら。たぶん、Aさんがなぜわたしを嫌っているのか、理由を知ろうとしたかもしれない。そして自分の嫌われている部分を、必死に直そうとしたかもしれない。それは人間として正しいことだ、と信じて。
でも、今のわたしは、それが正しいことだとしても、きっとしないだろう。開き直るのではなく、あるがままでいいんじゃないかと思うからだ。本当にAさんに嫌われているのなら、それは悲しいことだけれど、それはそれで仕方がない。わたしはAさんを嫌いではないから、なにかのきっかけでこれからすごく仲良くなるかもしれない。逆にどんどん心が離れていくかもしれない。そのときはそのとき。どちらに流れてもいい。
問題は、受け取った悪意を連鎖させないことだ。
なにかで読んだことがある。悪意は鎖のように繋がっていくものだと。受け取ってしまった小さな悪意は、思いがけず別の形に化け、予想外のところで次の人に渡してしまうものだと。
わたしは小さな悪意を受け取ったことより、それを誰かに渡してしまうことのほうが恐い。
なぜなら、もしわたしが何かに悪意を抱いたら、Aさんよりもっと破壊力のある悪意を、故意に誰かに投げつけてしまう気がするから。
もしかしたらAさんは、誰かから渡された悪意の鎖を、わたしに繋いでしまっただけなのかもしれない。ならば連鎖はここで断ち切る。そういう覚悟だけは、いつも忘れないでいよう。