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楠木ともりと優木せつ菜の「大好き」の記録 2,降板と2.5次元ライブにおけるトキメキの連鎖

〈楠木ともり/優木せつ菜の静的な「図像」と動的な「図像」〉

 声優がキャラクターの「声」と「図像」の両方を担っているという構造が、2.5次元コンテンツの基本的な在り方として存在していることをここまで述べてきたが、ここに楠木ともりが降板を決断の理由を垣間見ることが出来るだろう。
 
 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会5th liveにおいて、彼女は他のメンバーがステージの中央で踊る中、自分1人がステージの別の場所で歌うという形を取っていた。このことに関して最終日のMCで、「私はせつ菜を体現しないといけないなと思っていて、ステージにいる間、動けない私を見せちゃうとせつ菜が動けないという見え方になっちゃうので。」と述べており、先述した「図像」が髪の長さや衣装と言った静的な要素だけではなく、ダンスや身振りといった動的な要素にも支えられているものであるという発言と捉えることが出来る。
 

 〈2.5次元コンテンツにおける情動的概念〉

 そもそも『ラブライブ!』シリーズの2.5次元ライブでは、背後に移るアニメ映像と目の前に現実にいる声優とのシンクロを大きな魅力として提示していた。そのシンクロが発生していく過程で、オーディエンスはキャラクターを現実世界に見出していくことになる。
 
 川村覚文はこのような2.5次元ライブにおける演者とキャラクター、そしてオーディエンスの関係性について、「情動(affect)」概念を用いて考察している。「情動(affect)」概念とは、ある全体状況において主体と規定されているものが、その主体が置かれている状況に影響・触発(affect)されて、逆にその状況にも影響を与えるようになるという形で、その状況を触発するものとなるという考え方である。川村はこれのほかに西田幾多郎の「主客未分」の概念も引用しつつ、演者とオーディエンスの両方が2.5次元ライブ空間という状況に触発されるという情動的概念によって、単なる「ふり」ではない「演技以上のふるまい」が発生し、「他者でもあり自己でもあるような特異な身体性」が立ち現れるとしている。
 要するに、ステージ上において声優が行うダンスや身振り手振りなどは、ただのキャラクターの模倣として存在しているのではなく、2.5次元ライブ空間の中で声優とオーディエンスによってキャラクターそのものの行為として見られるようになるということである。
 
 そしてその実例として、ラブライブ!の南ことり役である内田彩の「モニターに映っている自分の後ろ姿を見て、『ことりちゃんがいる!』って思ったりしていたもん」という発言が引用されている。ここでは、まさに内田彩が主客未分の状態になり内田彩が南ことりそものへ、つまり声優がキャラクターそのものへ、演技やパフォーマンスを超えて生成されているのである。
要するに、5th liveの状況は、優木せつ菜という他者でもあり、楠木ともりという自己でもあるひとつの身体が、ステージの他メンバーとは違うところで踊っていたということになる。
 川村の2.5次元ライブにおける情動的概念では、2.5次元ライブ空間という前提となる状況のもとで、声優がキャラクターと同じ衣装を着たりダンスをしたりして、それを見たオーディエンスが声優たちを虚構のキャラクターと同一視する「ふり」をする。それによって声優がさらにキャラクターへと近づき、そしてオーディエンスがその声優をキャラクターとより同一視をして…という触発の連鎖が、もはや自覚が出来ないほどの速さと量で自然に繰り返されることが重要であるとしている。 
 

 〈降板と触発の連鎖の困難〉

 しかし先述したような5th liveの楠木ともり/優木せつ菜がひとり違うステージにいるという状況はその連鎖を困難にさせるものだ。 
 
 例えば、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の全員曲である「Colorful Dreams! Colorful Smiles!」では、他のメンバーがメインステージで、背景に映るアニメ映像とシンクロしたパフォーマンスを披露する中、楠木ともり/優木せつ菜は舞台上部と下部を繋ぐ階段の途中に設置された踊り場のような空間、要するに他のメンバーとは独立した空間で、彼女にできる範囲の踊りを行っていた。もちろんそれは背後に映るキャラクターの映像とシンクロしているとは言い難い。
 そうすると、オーディエンスが現実の声優と虚構のキャラクターを同一視するための「ふり」をするその幅が大きくなり、情動的概念における触発の連鎖が起きにくくなってしまう。これが楠木ともりの降板の決意に大きな影響を与えていると考えることが出来る。
  
 ただひとつ言えることは、それでもステージ上に楠木ともりがいるだけで、優木せつ菜を感じることが出来る人が少なからずいたということである。実際この演出は、歌だけでもステージにいてほしいというファンの声から実現したものであると楠木ともりから述べられている。ここでは楠木ともり自身に「他者でもあり自己でもあるような特異な身体性」が発生していた、つまり楠木ともりでもあり優木せつ菜でもある身体が立ち現れていたと言えるだろう。
 
 しかしながら、一人で違うところに立ち続けてパフォーマンスを続けていくということは、かなり辛いことではなかろうか。現に彼女は降板の正式発表の際に、「楽屋モニターで見たステージに立つみんながあまりに眩しくて可愛くてかっこよくて。こんな姿を見たいな、見てほしいなって思ったのがひとつの決定打でした」と述べている。ここで語られている「あまりに~かっこよくて」という彼女たちのパフォーマンスのトキメキとでもいうべきものは、まさに情動的概念によりもたらされたものと言えるだろう。
 このトキメキは、静的な要素と動的な要素の両方によって支えられた「図像」と「声」というキャラクターを支える二つの大きな要素を、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のメンバーたちが担うことに成功し、情動的概念による触発の連鎖が起こった結果でありその証だと言える。これは彼女たちによる「トキメキの連鎖」と言い換えることも出来る。

 
 楠木ともりの決断は、この情動的概念による触発の連鎖の場において、自分はその役割を果たすことはできないという宣言として捉えることが出来るだろう。そして「声」を担う声優としてある種の特権的地位にある彼女にとって、「図像」を担うことの重要性を身に染みての決断という一面があるようにも思われる。「トキメキの連鎖」を起こすことが、今の状況では困難になってしまったのである。

 ここまで、楠木ともりのパフォーマンスの困難な面をピックアップして述べてきたため、いささかネガティブな内容が続いたが、次章ではこれらをポジティブに捉え、制約がある中で彼女が行ってきたことはどのようなことだったのか、そしてどのような意味において価値があったかを考えていきたい。

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楠木ともりと優木せつ菜の「大好き」の記録 3,表現の模索期間の存在の特異性|此花(このはな)|note


〈参考文献〉
『ユリイカ 平成28年9月増刊号 総特集 アイドルアニメ』2016年 青土社 p124-131

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