見出し画像

『ヤダ!』は、「優木せつ菜は変わらせない」という最後のワガママである③

図像の無い『ヤダ!』のパフォーマンスの難しさ 


 4thLiveにおける『ヤダ!』パフォーマンスの特徴は、「体現すべき図像の不在」である。つまり再現すべきアニメ映像もなければ、衣装も無い。その場で優木せつ菜を体現できるのは真も意味で楠木ともりだけだったのである。図像の不在、そして少し今までとは雰囲気の違う曲という2点に、やはり楠木ともりも苦戦したようで、4th live 後のインタビューで「今まで作り上げてきたせつ 菜のかっこよさ、スクールアイドルとしての圧倒的な存在感のようなものを一度 崩して、彼女らしさを失うことなく再構築することが大変でした」と述べている。
 
 これに対して楠木ともりは、自身の生身の身体を通してこの曲が持つ「カワイイ」「萌え」にすべてを捧げることで、カワイイ優木せつ菜像を作り上げていった。ウィッグをつける、普段の凛としたメイクとは違うナチュラルなメイクで登場する。そのような単純な見た目もそうであるし、なにより印象的なのは「カワイイ」「萌え」を体現するための、できる限りの身振り手振りである。サビの『あれもヤダヤダ これもヤダヤダ』というヤダの連呼に合わせて両腕で作るバツ印、目の前の観客への指差し、上目遣い、指ハート、その他手の平を頬につけるなど媚びるようなポージング。どこまでも「カワイイ」「萌え」を体現しようとするその姿勢は、執念すら感じさせるものであった。

 それは歌い方においても言えることである。他の優木せつ菜のかっこいい楽曲とは一線を画す、「萌え」に満ちた歌声だ。サビで『ヤダヤダ』と繰り返すところは『ダ』の部分も強く発音されることでよりあざといものになるし、その発音と共に首を傾げたりする姿はなおさらあざといものになる。楠木ともりのソロアーティストとしてのコンサートにも行った者としては、同一人物とは信じられないほどだ。

 

初めて図像が、楠木ともりであったことの意義


 ここで重要なのは、ファンが初めて感じた『ヤダ!』の優木せつ菜の図像は、楠木ともりが4thLiveにおいて体現したものになるということである。ここに『ヤダ!』パフォーマンスの特異性が存在する。楠木ともりが優木せつ菜の本当にすべてを担うことによって、優木せつ菜=楠木ともりという構造は、究極的な形になっていったのである。『ヤダ!』は、あの時の楠木ともりの生身の身体を通してしか感じられないとすら言えるかもしれない。
 
 この意味においてあのパフォーマンスの時は、最も楠木ともりの身振り手振りや言動、歌が優木せつ菜となった瞬間であった。これはそれまでの2.5次元空間において、ファンと優木せつ菜=楠木ともりが多くの物語を共有してきたからこその結果でもあろう。ただし、それは楠木ともりの絶え間ない優木せつ菜の体現に基づく積み重ねが一番の基礎にあったことを忘れてはならない。



優木せつ菜⇔楠木ともりという双方向の影響

 このように考えると、『ヤダ!』を聞くとき、ファンは4th Liveのパフォーマンスを想起させられることになる。ここに『ヤダ!』が楠木ともり最後のワガママとして捉えたくなる理由がある。優木せつ菜=楠木ともりという構図が成り立つとき、現実の2.5次元ライブ空間に存在する楠木ともりの生身の肉体は、優木せつ菜の肉体にもなる。この時に、逆に優木せつ菜の言葉も、楠木ともりの言葉にもなり得るのではなかろうか。
 もちろんその歌の中に存在する感情は、優木せつ菜のものであるが、それを体現する過程で、優木せつ菜=楠木ともりの生身の身体が、ファンと様々な場所・時間・物語を積み重ねていくことによって、楠木ともりの感情もまたそこに乗せられていくようになるのである。『ヤダ!』は、この構図は最も分かりやすく表れたものといえるのではなかろうか。だからこそ、私は『ヤダ!』に優木せつ菜=楠木ともりの構造だけでなく、楠木ともり本人の影を追い求めたくなるのである。

 

4th LiveでのMCで彼女が示した「ワガママ」


 またここには、4th LiveでのMCの内容も大きく影響していることを記しておく。彼女は『ヤダ!』になぞらえて、まさに「私からもワガママを2つ良いですか?」として「スカーレット色いっぱい振ってくれますか?」「12人になった虹ヶ咲もずっと大好きでいてくれなきゃヤダ!」という二つのワガママを、『ヤダ!』のパフォーマンスの時のような全力の「カワイイ」「萌え」を再現しながら提示していた。 
 楠木ともりは降板発表時のコメントで、「せつ菜と一緒にやりたい こと、見てみたい景色はまだまだたくさんありましたが、虹ヶ咲学園スクールア イドル同好会が伸び伸びと活動し、もっと広くたくさんの大好きを溢れさせてほ しいという思いから、このような決断とさせていただきました」と、 虹ヶ咲と優木せつ菜の良き未来を祈るようなことを述べている。 逆に言えば、そこにあるのは、その良き未来に楠木ともり自身は不要であるという自己判断である。
 この自己犠牲にも近い判断を通して、彼女がファンに示した覚悟と責任は大きなものである。だからこそ、今回述べた「優木せつ菜は変わらせない」というワガママは、虹ヶ咲と優木せつ菜の良き未来のために非常に重い意味を持つものとして、ファンにぶつけられるのである。
 いや、ファンは彼女の「ワガママ」に応えなくてはならない責任があるのであるとまで言ってよいのだ。

 

最後に

 ここまでいかにして、『ヤダ!』が「優木せつ菜は変わらせない」というワガママであるかを述べてきた。最初にも述べたが、おそらくこの読み方は、少なくとも何かを体現しなくてはならない存在である声優としての楠木ともりが期待したものではないであろうし、まっすぐな理解でもないだろう。しかし『ヤダ!』をこうした優木せつ菜=楠木ともりが最後に残してくれた想いと捉えれば、彼女と『ずっと一緒』に入れるような、そんな気休め程度かもしれないが確かな救済が存在するように思える気がしている。
 『ヤダ!』が最後のワガママとなることによって、そしてそのワガママが叶うことによって、優木せつ菜=楠木ともりが積み上げ、ファンと共有してきたキャラクター像が末永く続くことを願いながら、文を閉じようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?