
幻影の世界へ。初めまして、ライカ・タンバールレンズさん
こちらの記事で、単なる写真好き、あるいは被写体として、写真について感じることを書きました。
今回はタンバールというライカのレンズで撮影された写真についてです。
ライカのタンバールレンズがどのようなものかについては、私を撮影してくださっている魚住心さんの記事をご高覧ください。
夢幻の如く
仏教思想では、この世のすべては幻だとします。
つまり、すべての現実は心がつくりだしているのだと。
幼い頃から私は少し(かなり?)おかしな子どもで、幻の中を生きているような気がしていました。
いえ、それよりもっと、わたし自身が幻そのものであるような感覚です。
存在しているのかどうか、わからない。
特に一人でいるときは、実はもう透明になっていて、私の肉体はどこかにあるのではないか、などと思っていた。
たとえば京都あたりの寺院で襖絵をじっと見ていると、そうした感覚がありありと蘇ってきます。
それは、「すべてを描かない」「克明にしない」という日本的な画法ゆえかもしれません。もとは中国からもたらされたものであったにせよ、時代と共に日本的になっていった。特に平安時代以降に。
この、「すべてを描かない」「克明にしない」というのはつまり「曖昧である」ということであって、「曖昧である」ということは「境界線がない」ということになり、「境界線がない」ということこそが、見える世界と見えない世界、あの世とこの世を自由に行ったり来たりする日本的なあり方そのものであると私は考えている。
くだくだと述べましたが、タンバールレンズで捉えられた絵には、そうした曖昧さを感じるのです。
そして、写し出された世界も、わたし自身も、まさに「幻」のようでした。





不在であるがゆえの存在感
去年の11月、いずれこの世を去るときにそなえて、日記と紙焼きの写真を処分しました。10代から40代くらいまででしょうか。自分を生きているとは言えない時代、青春なんて言葉がまったく当てはまらない曇り空時代のわたしは、ことさら笑顔で見ているだけでしんどかった。
いの一番に写真と日記を処分したのは、親の遺品の中で最も扱いに困ったためです。
そんな、一種奇妙な思考を持つ私には、まるで幻のように見えるタンバールレンズの写真は安らかな気持ちにさせてくれる。
「存在」というものがもつ重量を、ごくわずかに軽量化してくれるような気さえする。
そう、ずっしりと重たい存在になどならなくていい。
ふっと消えていくくらいがちょうどいい。
潤んで、滲んで、溶け込んでいって、気づいたら風景だけがそこにあった、というように。
私はカメラのこともレンズのこともよくわからないけれど(と、もういちど繰り返しますが)、こういった観点からすると、タンバールレンズで撮る写真には「不在ゆえの存在感」といった表現もできるのかもしれない、などと思います。
そこに写し出されていないのに、かえって「存在」が醸し出されるような絵を、描き出せるのかも知れない。

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