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時をいつくしむ時計

新しい時計を購った。
壁掛け時計だ。
美しいデザインのものが欲しいと思い探してみたところ、「Riki」という時計と行き合った。

はじめは文字盤の位置が引っ込んでいるように感じられた。
長針と短針のバランスも妙な印象だ。
だけどアラビア数字の書体も好みだし、木製のフレームもやわらかな空気感でいい。
値段も手ごろだった。
これにしよう、と、ほどなく決めた。


ちなみに私は買い物はもっぱらオンラインで済ませている。
慣れればたいていのものは購える。
「実際に手に取ってみないと不安」という意識はコロナの時に完全に飛び越えてしまったため、オンラインでもほぼ後悔ない買い物が出来ている。
届いたときが実際に手に取るときとなるわけだが、それはそれで楽しみがある。

手にした時計は想像したよりも小ぶりだったが、もともと使っていた壁掛け時計が大きかったせいでそう感じたのかもしれない。
そして、想像していたよりも、美しいものだった。


文字盤のやや中央に「Riki」と手書きとおぼしきロゴがある。
それは、デザイナーの故・渡辺力さんのサインだった。
といっても、私は渡辺力さんというデザイナーについて、名前をチラッと記憶している程度で、ほぼ何も知らない。
ただ、その作品には憶えがあった。
記憶に残るモノが、あるとき作者やデザイナーとつながる。
こういうことはよくあることで、この時計もそれにあたる。

同封されていた小さなパンフレットには、渡辺力氏の経歴と共にデザイナーとしての歩みが端的に記されている。
生まれは1911年というから、明治44年だ。
大正から昭和初期にかけて多感な時期を生きたことになる。それは世界的にもデザインが熱い季節といっていい。
しかも、ブルーノ・タウトに師事したという。近代建築好きなら誰もが知る建築家だ。
なんということだろう、ものすごい人ではないか。
嬉しくてドキドキした。何も知らずにちゃんと選び出した自分の「審美眼」が嬉しくなった。
私は「名前」で選んだのではなく、「デザイン」で選んだのだから。

渡辺力氏は椅子などのプロダクトデザインやインテリアデザインも手がけたあげく、晩年はクロックデザインをライフワークとしたという。
それも、90歳を機に!
パンフレットには
「自身の集大成としてライフワークでもある時計に再び正面から挑み、以後101歳で世を去る直前までウォッチとクロックを精力的にデザイン、ディレクションする」とある。
日本を代表するデザイナーが、自身の人生の集大成として手がけた時計のひとつだったとは。

電池をセットすると、静かに秒針が動き出した。
音はしない。
すべるように円を描いていく。
何を想い、音がしないように設計したのだろう。
部屋の中から、チクタクという、ごく小さいながらも急き立てるような音が消えた。
私は秒針を追いながら、静かに流れる時をしばし眺めた。

これまでいい加減な選び方をしてきた気がする。
壁掛け時計は何時か一目でわかれば良い、そこそこのもので十分、そんなふうに思っていた。
急に嫌になって処分したくなった時計は、何年も前に大型スーパーで購入したプラスチック製のものだった。
そうだ、急に嫌になったのだ。
それも耐えられないほどに。うんざりするような気持ちだった。

幼い頃から死を意識して生きてきた私は、人一倍、時を大切に過ごしているつもりだった。
時間とは滅びゆく肉体があるからこそ存在する、つまり生きている今世そのものを示していると言っていい。
けれど、そこまでわかっていたというのに、私はほんとうに時を慈しんでいただろうか。
そんな問いかけが立ち上がってきた。

プラスチック製の壁掛け時計が嫌になったのは、時を惜しんでいるくせに、そのくせそこまで慈しんでいないあり方に潜在的に気づいたからかもしれない。

今年、私はあらためて日々の暮らしを大切にしていきたいと思っている。
仕事も遊びも境界線のない生き方をしており、それが気に入っているし、私の生き方だと言うことができる。
けれどいつの間にか仕事ばかりしていた。パソコンデスクに向かっている時間が恐ろしく長い。それだけに、たとえば日常のなんということもない食事の時間などを悪い意味でいい加減にしていた。

時間が、なかった。

もうそのような生活を今年はやめようと決めたのだ。
時計が欲しくなったのは、そんな矢先のことだった。

たったひとつの時計との出逢いが、このようなことを思わせるのだから、やはり本物の持つ力というのは計り知れない。

名前は体を表わすと言うが、デザイナーの名は「力」である。
生涯をかけたデザインには、これほどまでの「力」が込められていたのだ。

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石川真理子
みなさまからいただくサポートは、主に史料や文献の購入、史跡や人物の取材の際に大切に使わせていただき、素晴らしい日本の歴史と伝統の継承に尽力いたします。