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幸田露伴の母に見る『美を求める心』

 小林秀雄の『美を求める心』を手引きに、現代人がいかに「眼」「目」をうしなっているかということについて書いた。
 それがこちら。

 実は当初、この記事に書きたかったことがある。書いているうちに長くなったので割愛したのだ。今回はそのことについて。

ただ見るのではない。見抜く眼の据え方である。

 ものをじっと見る、という言葉で即座に想い出されるのが幸田露伴の母である。幸田文の自伝的随筆『みそっかす』のなかに「おばあさん」というタイトルで収録されている。
 幸田家は幕臣で母の猷(ゆう)も武士の娘として育ったのだろう。ずいぶん厳しくどっしりとした女性だったようだ(精神的にも、肉体的にも)。
 幸田露伴は母を「おっかさん」と呼び、「おっかさんの御恩は洪大だ」と独特の抑揚で度々娘の文に語っていたらしい。
 その「おっかさん」がものを見るときの様子が、すごみさえ感じられる。露伴には二人の妹があり、延(のぶ)はピアニスト(ヴァイオリニストでもある)、幸(こう)はヴァイオリニストだ。幸田文からすれば叔母である。
 ある日、どちらの妹だったのか、音楽会で贈られたとおぼしき花束を抱えて帰ってきた。当時としては極めて珍しい蘭の花だ。見たことがない人の方が圧倒的に多い。大きな花束だったようで、ふたつに分けると、方やピアノの上へ、方や茶の間に飾られた。
 それを、猷が見た。

 朝食のあと、おやつの時、おばあさんはこの花を長いことぐっと見ている。(中略)
 ただ見るというのではない、見抜く眼の据えかたである。

『みそっかす』「おばあさん」(幸田文)

 露伴とそっくりな顔をしていたというから、妙に気迫のある表情だったと想像がつく。そして、それから言ったことがまたふるっている。

「花品(かひん)の上なるものではない」

 猷の言葉を引き受けて、露伴が言ったことがまたいい。

 父は、「恐らくはそれはあたっているのかもしれない。おっかさんは西洋蘭の知識なぞおもちなさらないのだから、熟視して鑑定なさったのだろう。書も絵も見たことのないものは熟視することによってそのゆきたけは窺われるものだ」と話してくれた。

 いやもうしびれるではないか。
 西洋蘭といえば、もうそれだけで「まあ!」と目を輝かせるご婦人も少なくなかったのだろう。猷はそうした知識・情報のフィルターを持たない。そして、ただ熟視した。その結果の鑑定なのだ。そこには世間の評判など介在する隙もない。あくまで自分の目にどう映じられたかという「私にとっての真実」がある。そして、それは得がたいものなのだ。
 露伴の教えは常に正鵠をついているが、ここでもさりげなく重要なことがらがある。

「書も絵も見たことのないものは熟視することによってそのゆきたけは窺われるものだ」
 

 わからないからといって知識を取りに行こうとするのではなく、徹底して熟視する、そのほうが自分にとっての本質的価値が見いだされるというのである。

 露伴という人も「美」に関しては極めて繊細であった。この母にしてこの子ありということなのだろう。ただ、両者は微妙に異なる。それを文は次のように記した。

 菊や牡丹の賞玩用の花も、鷺草や銭苔も同じ眼つきで見る。普通の桜の実は大抵成熟しないうちに落ちてしまうものである。片側だけ陽に染まっている小さい実を手にして、おばあさんは、「ごみ箱へ棄ててしまうには惜しい美しさだ」と眺めていたことがある。父は花を見て情を動かすが、おばあさんは認めてなお悠然として納まっている感じがある。

 つまりこういうことだ。
 今や多くの人が「雑草」と思って見向きもしない草花も、観賞用に特別に栽培された名花も、まったく同等に見ている。ここにも「どこそこのなになにという価値あるなんとか」といった知識的レッテルやフィルターは存在しない。ただその人の眼があるだけだ。
 そのおばあさんが、桜が散った後に成る実を手に取って、その美を惜しんでいたという。この稿を読んでくださった方のなかに、花吹雪の後の桜を愛でる人はいるだろうか。瑞々しい葉がいつのまに大きくなり、その間に「さくらんぼ」と言うにはあまりにも小さすぎる赤い実が揺れているのを目にして、しばし眺める人はどれくらいいるだろうか。そういった「うつろい」をしみじみと我が身に寄り添わせていったのが、かつての情緒豊かな日本人だったのだろう。
 それを思えば、「あれこれ質問する前にとにかく見なさいよ」となかばあきれて言う小林秀雄の心情も、いっそう間近に感じられる。

 江戸時代まで日本人は右脳で先ず受け取り、それから左脳を使うといったような脳の使い方をしていたようだ。
 まず感じて、それから考える。次に感動し(右脳)、感動のあまりじっとしていられなくて言語化する(左脳)。それだけでは足りなくて、行動(右脳・左脳)していたようだ。

 今、時代は一巡し、左脳優位では幸福度があまり感じられないことが理解され始めた。アメリカの脳科学者ジル・ボルト・テイラーの体験も、それを克明に物語っている(『WHOLE BRAIN』)

 露伴のおっかさん、文のおばあさんである猷の「ものの見方」を、うそでもいいから真似してみたいと思うのだ。


 写真:魚住心

 


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石川真理子
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