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京都の珈琲屋さんで朝ごはん。

 朝ごはんほど好きなものはないと思っていた。
 一日3回ごはんをいただくのなら、3回とも朝ごはんがいいというくらいに。つまり、朝ごはんらしいメニューを、昼も夜もいただくということなのだけど。
 アメリカ式のコンチネンタルブレックファストに凝ったのは14歳の時だったと思う。100%のオレンジジュースとシリアル、ゆで卵。
 栄養価に意識が向くようになってからは、この朝食はやめた。代わりにイングリッシュブレックファストに変わった。
 たっぷりのミルクティとトースト、卵料理にサラダ、くだもの。その一方で、朝がゆに凝ったこともあった。
 私はひとから和食のイメージを持たれることが多いのだが、実際はバタ臭い好みをしている。父は青年時代に英会話を学ぶため英国の「サー(Sir)」の自宅(といってもイギリスではなく港区三田あたり)に通っていたらしいし、『暮しの手帖』が大好きだった母は近くの教会でシスターから西洋料理を習っていた。幼い頃からバターが何より好きだったのは、まちがいなく両親の責任である。
 もっとも、その影響を脱出したあたりからは、玄米菜食の朝ご飯をいただくようにもなっていた。
 いずれにせよ、かつてはたっぷりの朝ごはんをいただいていたのだ。
 理由は、仕事のために昼食を取れないことが少なくなかったから。また、仕事の手を止めないため、意図的にとらないこともあった。
 だから朝ごはんで栄養をとっておく必要があったのだ。

 そんなに大好きだった朝ごはんをとらなくなってから、もう何年にもなる。もしかしたら十何年かも知れない。
 体のサイクルから言えば昼の12時まではデトックスの時間であるのと、ヨガを朝にするようになったためだ。
 17歳の頃に習っていたヨガは、今とは異なりほぼ修行のような厳しさで、食事はヨガをする30分前までに済ませ、ヨガをした後は1時間は固形物をとらないようにするのがルールだった。私はそれを何十年も守っている。
 それで朝にヨガをするようになってからは、液体プロテインで栄養素をとるようになったのだ。

 朝、固形物を取らない生活が長くなった今では、もう食べようにも食べられない。
 だけど、朝ごはんが大好きなことは変わらない。
「朝ごはんを食べること」が好きというよりは、コンチネンタルだろうが英国式だろうが玄米菜食だろうが、朝ごはんらしいメニューが澄んだ光の中で並んでいる風景が好きでたまらないのだ。
 家のテーブルに並ぶ様子もさることながら、雰囲気のある喫茶店やカフェで、いかにもおしゃれなメニューが載せられている風景にも憧れる。ホテルの朝食だって、素敵に贅沢だ。

 もはや朝ごはんは憧れのようなものとなってしまったのだが、先日、特に思いきったわけでもなく、京都の珈琲屋さんで朝ごはんをいただいた。

「京都の珈琲屋さんで朝ごはん」だなんて、まるでおしゃれな人のSNS投稿みたいではないか。
 わあ、すごい、まさか私がそんな経験をするなんて。



 ふだんはもっぱらお茶派だが、めずらしく珈琲をいただいた。
 早朝に起きて新幹線で移動したせいか、おなかもちょうど空いていて、かるくなら食べられそうだった。
 週末の京都に静けさを求めるのは困難だが、運よく窓際の席にご案内いただけた(人でいっぱいの店内を見ないで済む。これは重要。疲れない)。

 青磁のコーヒーカップに注がれた珈琲と、コッペパンを使った卵サンド。木の窓枠に手吹きガラスと、なにもかもがかわいい。
 珈琲から立ちのぼる湯気が冬の光を受けて、湿っぽい絵を描いていく。

 なんといってもフルーツサンドが嬉しかった。
 ふわふわしたパンにホイップした生クリームと苺の組み合わせは、すべての人を永遠の少女に変えてしまう(と、私は思っている)。
「季節のフルーツサンド」なので、グレープフルーツが組み合わされていた。



 おいしいものをいただくのは嬉しい。
 それが朝ごはんなら、なおのことだ。
 だけど食べてしまうとなくなってしまうから、ずっと眺めていたくなる。
 食べることよりも、その風景を眺めるのが、やはり私は好きなのだ。
 欲の方向性が少し変わっているのかも知れない。
 

 十時近くになると、ひっきりなしに人がやってきて、店の中も外も席を待つ人でざわつきはじめた。

 朝の時間はあっけなく終わる。
 きよらかな光も、もう昼間のそれへと近づいている。
 次はもっと早起きをして、もっと早い時間に行ってみたい。
 「次」が来るかどうかわからないけれど、いちおう、宿題にしておこう。


写真:魚住心


 
 

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石川真理子
みなさまからいただくサポートは、主に史料や文献の購入、史跡や人物の取材の際に大切に使わせていただき、素晴らしい日本の歴史と伝統の継承に尽力いたします。