気になりませんか?現実との乖離
それって本当にメリットですか?むしろデメリットでは?
ずっと前から気になっていたことがある。
プロフィール写真と現実との乖離だ。
はじめそれは名刺で起きた。名刺に印刷された顔写真が名刺を渡すその人と同一人物に見えないことがあったのだ。
「え?!」思ったけど言えない。
加工したことはわかったけれど・・・、でもこんなにかけ離してしまっては、むしろデメリットなのでは?と心配になった。
鏡に映る自分の顔に驚く若い子たち
やがてSNSが普及し、誰もが発信者となった時、ほどなく加工アプリが登場して「盛る」という言葉も生まれた。
もっとも、その前から「プリクラ」があり、キラキラの加工を施すことは行われていた。
その文化を引き継ぐ世代の子たちは、
盛るのが当たり前
現実と違っても気にしない
それはそれとしていいのだ、
という感覚らしい。
でもその一方で鏡を見る時、自分の顔に驚くこともあるという。
そのはずだ。
いつも目にしている「自分」は「盛られた自分」であって、そちらを見る方が圧倒的に多ければ、もはや脳にデータとして記録されているのだから。
「ほどよく」を慎重に踏んでいかなければ、本当の自分を潜在的に自己否定することになる?
そして盛ることは、もはや年代を問わずに広がった。
世の流れがたとえそうであっても、私の感覚は流されていない。
違和感は違和感でしかない。
一般的にはもうプロフィール写真と現実とが違っていたとしても、そんなものだと納得しているのだろうか。
それとも脳のバグに気づけないほどにまでなっているのだろうか。
ついでながら、私自身は写真と現実が離れてしまわないように、かなり気を遣ってきた。
写真を家族に見せて「現実もこういう顔してる?」と、その都度確認してきた。
私のSNSをご覧くださっている方々が、どんなふうに受け取っているかはわからないけれど、現実に会った時でも、私であることをわかってもらえるように配慮してきたつもり。
Zoomには、画像が明るくなるような設定や多少の見た目補正があり、講座やセミナーを行う立場だから、見苦しくない程度になるように調整はしている。
それも常に確認して現実と乖離ないように気をつけている。
このように、「いっさい盛りません(キリ!)」みたいな野暮は言わない。
「ほどよく」と思える程度に調整することは私もやっている。
ただ、フォトグラファーの魚住心さんに撮影していただく時は、魚住さん自身が「加工はしない」という主義なので、(怖いけれど)喜んで従っている。
そして私は、魚住さんが引き出してくれる私自身のそのままの姿を愛している。
と、このようなことを考えた時、「加工した自分の姿」を愛することは、潜在的な自己否定に繋がらないだろうか?と、気づいた。
中野珠美氏『顔にとりつかれた脳』
ずっと気になっていたことへの答えになる本が登場した。
『顔にとりつかれた脳』中野珠美(講談社現代新書)だ。
ここにはまさに、「バグ」が起きている(つまりドーパミン中毒症状が起きている)脳のメカニズムが解明されている。
加工は、特に女性に多い。圧倒的に多い。
私は、女性が美しくあるためには、教養が不可欠だと信じている。
もちろんそれは単に学歴が高いということを著しているのではない。
教養とは、みずからを客観視し、調和を保とうとする思考と思索の連続であると私は考えている。そして、それは根底にある「愛」から発されている。
教養ある女性であるためには、こうした本で学んでいくことが重要だと思う。