触れてくるもの
この稿を書きながら私は泣いている。
書き終えるころに涙が止まることを願う。
まったく思いがけない出来事はえてしておきるものだ。
もっとも、行き当たりばったり(行き当たりぴったり)で生きている私にとっては、多くが思いがけない出来事だ。
この手紙もそう。
『五月の蛍』という自著を恵送したのは9月、
秋の足音が聞こえてくる頃のことだった。
お贈りした理由は、
その人が、真剣に生きる人だったから。
こんな人に読んでいただきたい、
この人はきっとわかる
そんな思いを行動にした。
簡単な手紙を添えたけれど、本についてのことは
多くは書かなかった。
ただ、
「これを書き終えたら死んでも良いと思える、初めての本だった」
ということは書き添えたと思う。
その返事が、
如月の始まりと共に届いた。
なぜ泣くのか、それは誰にもわからない。
説明しようとも思わない。
言葉にした瞬間、陳腐になるから。
ほんとうのことは、
言葉に出来ないものなのだ。
それは言葉の限界を示すものではない。
ただ言えることは
心の奥深くになにかが確かに触れ
魂にまで響き渡るほど感情が揺れ動いたとき
人は言葉を失うのだ。
その沈黙こそが、すべてを余すことなく語る。
それでも、この想いをもし言葉にするとしたら
「この本を書いていたころの懸命な自分を想い出し
その時の感覚がよみがえり
それを手紙の主が
どうやら共有したらしい」
ということだ。
七年近くの時を経て。
だけどそれだって溢れる想いのほんのカケラに過ぎない。
言葉が他者に何かを伝えるためだけにあるのだとすれば
この文章は駄文に他ならない。
何も伝わらなくていい。
私は、私のために、この出来事を残しておく。
ではなぜ共有するのかと言えば
文章を書く人に、自由になって欲しいから。
必ずしも伝わらなくていい。
ただ、自分のための覚書きが
いずれ発酵して何かを伝える際に
役立つこともあるかもしれない。
だけど本当は、そんなことからも
離れていたほうがいい。
トブトリノ焙煎所は、奈良県の明日香にある。
検索すればすぐに出てくる。
店主は徒歩で日本各地を旅した人。
そのうえで、今は明日香に拠点を置き
静かに珈琲と向き合っている。
そこには彼の人生が映し出されている。
みなさまからいただくサポートは、主に史料や文献の購入、史跡や人物の取材の際に大切に使わせていただき、素晴らしい日本の歴史と伝統の継承に尽力いたします。