
75 梅すだれ-上京
丸一日かけて淡路島を縦断し、証へ渡る船着き場の岩屋港へ着いた。港の東の脇には絵島と呼ばれる小さな浮島がある。粗く削られた赤い岩肌が露出していて、誰かがそこへ島を置いたような異物感がある。この島こそがイザナギとイザナミが海を攪拌して溜まった塩でできたという「オノコロ島」だと言い伝えられている。猿彦と石丸は秀吉は知らなくてもイザナギとイザナミは知っている。天野原が信仰する八百万の神の祖である。
鳴門へ着いてからやけに神話の話を耳にする。天野原の虐殺で逃げてきた猿彦には恐怖さえ感じる。石丸も同様である。二人が着いた夕刻には空が真っ赤に染まり絵島も赤く染まった。それは血塗られたようにも見える。猿彦は逃げ出した夜に山ノ影が赤く燃えたのを思い出して恐ろしさに身が震える。石丸も同様である。早く淡路島を出たいと心落ち着かない二人である。
翌朝、二人は誰よりも早く起きて港へ行った。まるで逃げるように船に乗り込み淡路島を後にした。明石までほんの一里。上陸すると淡路を振り返ることなく二人は西国街道を東へと歩き京へ入った。
西国街道は本州の西の果てである長門の下関から京の三条大橋をつなぐ街道である。舟嫌いの猿彦であるから本来なら熊本から薩摩街道を北へ行き、途中合流する長崎街道を東へ進み、九州の東の端の大里から関門海峡を渡り下関へ上陸すれば、あとは西国街道を東へ歩いて京に着く。これなら船に乗るのは一度でよかった。しかし作之助から伊予へ寄るように頼まれたことで、四国経由で舟に三度も乗ることになったのだ。
伏見を過ぎ、七条通りへ着いたところで長い旅の終わりが来た。ここに猿彦が入門する本願寺と石丸が弟子入りする七条仏所がある。七条仏所とは、今日の七条にある十数人の仏師の大きな工房のことである。ここでは京都に数多くある寺の仏像の製造や修理を行っている。石丸はここに来れば弟子入りさせてもらえると教えられたのだ。
七条通りの本願寺前で猿彦と石丸は抱き合い、お互いの健闘を祈って背中を叩き合った。はるばる熊本から歩いてきた旅は終わり、ついに念願の修行が始まる。猿彦は本願寺へ、石丸は七条仏所へ、それぞれの場所へ入っていった。
猿彦は覚十に書いてもらった得度の願いの文を本願寺へ提出し、延慶寺の僧侶として修業させてもらえることになった。すんなり修業を始めた猿彦とは違い石丸は、
「弟子入りのことを言っといてやる」
と言われていたはずなのに仏所へ行ってみると、
「何も聞いていない」
と言われた。日向の山奥から出てきて右も左もわからぬ石丸である。途方に暮れていると、八人いる大仏師のうちの一人、治部卿入道康友が弟子にしてやると受け入れてくれた。康友には仏師の見習いをしている十八歳の息子がいて、その兄弟弟子として石丸の面倒も見るという。こうしてどうにか仏師の修業を始めることになった石丸である。
猿彦のいる本願寺とは目と鼻の先。朝や夕刻に本願寺へ猿彦に会いに行くのだが、猿彦に会うことは到底叶わなかった。と言うのも、猿彦の修業は夜明け前に起きて就寝するまでの間、やることがすべて決められている。課せられた務めを修行僧全員が一斉に行うのだ。務めは時刻で細かく割り当てられていて、自分の時間を過ごす余裕などない。
子どものころから家族と離れて山で過ごすことが多く、天草でも一人で暮らしていた猿彦であるから、突然の集団生活に面食らった。起きる時間も同じ、一緒に掃除をして念仏を唱えてご飯を食べてと、百人いる修行僧たちは写しもののように動く。個の喪失を感じる猿彦だが、得てして妙、それを心地よく感じた。山ノ影という出自を消し去ることができる。ここで修行を続ければ雲十のような坊さんになれると希望が持てるのだ。猿彦は熱心に修行に励んだ。
半年ほどが経ち修行の暮らしにも慣れてきた。猿彦は雲十に文を書いた。本願寺で修行させてもらえることのお礼を言い、仏説阿弥陀経しか知らなかった猿彦であったが、正信偈や重誓偈、讃仏偈などあまたある経文を勉強していること、厳しい管理の下での暮らしであることなど、書き尽くせないほどのあれやこれやをとめどなく書いた。天草までの長い道のりを考えると無事に雲十の元に文が着くのか半信半疑であったが、文のことなどすっかり忘れた翌年の終わり、松之助から便りが来た。
藤に文を渡したことへの礼に始まり、天草へ越してきた藤と夫婦になったこと、父作之助の命令で雲十の元へ通うことができなくなったことが、父への長い恨み節とともに綴られていた。
松之助が延慶寺へ通えなくなったのは、作之助が明徳寺の檀家になったからである。明徳寺とは天草の代官、鈴木重成の兄、鈴木正三が創建した曹洞宗の寺である。これぞ領主に取り入る絶好の機会と、作之助は明徳寺の檀家になり誰よりも多く布施をした。もちろん息子の松之助の浄土真宗の寺への通いはやめさせた。必死に抵抗した松之助であったが、
「どの寺でも宗派でも御仏は同じであるぞ」
と雲十に言われ、泣く泣く父に従った。
作之助は村の者たちにも、明徳寺の檀家になることを進めた。檀家になった家には作付けの苗の量を増やしたり、出来高からの徴収を布施量に応じて減らしたり、特別待遇を施すことで檀家を増やした。そしてこの努力の甲斐あって、五年後、作之助は武士階級に引き立てられることになる。村を五つも掌握し、村人からの信頼も厚く慕われている。開墾の才もあり管理能力もある作之助である。まだまだ実際の石高を増やさなければならないことから、作之助の力は頼りになる。それに加え、勢力をじわじわと広げていく作之助を一揆でも起こされるのではという不安もある。いっそのこと作之助を役人にしてしまえばいいと考えた代官が思い切って実現したのだ。
自分の国を作ってやると意気込んで天草へ移り住んだ作之助である。夢が叶ったとも言える大出世であった。
つづく
次話
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