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67 梅すだれ-御船

干物屋へ戻った庄衛門は、干物屋を辞めて醤油屋をやりたいと旦那に頭を下げて頼み込んだ。頭が痛いと寝込んでいた庄衛門が突拍子もないことを言い出して、干物屋の主人は面食らった。
「おまんには熊本の城下町で干物屋をやらせよう思とっと。しょうゆてなんや?」
庄衛門は滝から聞いたとおりに醤油を説明し、必ず殿様に食べてもらうと言い切った。その言いっぷりに主人は希望を感じた。どうにかして干物を城へ卸したいと思っていたのだ。庄衛門が醤油を城へ献上すれば、それに乗っかって干物も献上できるかもしれない。

元々庄衛門に期待を寄せていた主人である。ちょうど長女の鈴が若くに番頭になった庄衛門を慕っている。庄衛門より七つ下で年齢も合うことから、嫁に出して城下町で干物屋の二号店をさせたいと考えていた。
「お鈴といっしょならええと」
と娘の鈴を庄衛門に嫁がせて縁続きにして醤油屋をやらせることにした。

庄衛門との縁談に歓喜する鈴は婚儀を急かし、すぐに執り行われた。干物屋から豆腐屋を過ぎ、さらに北へ行くと浮島神社がある。六百年前からある古い神社で、伊邪那岐と伊邪那美の夫婦が祀られていることから、ここで祝言を挙げると夫婦仲が永久に続くと言われている。庄衛門と鈴の挙式もこの神社で行われた。

社は大きな池の内側に突き出した部分に祀られていて、まるで水に浮いているようである。味噌屋への復讐と醤油屋の成功のことで上の空の庄衛門には、置き場のないどす黒い心を抱えた自分が、干物屋のお嬢さんを嫁にもらうという幸運の中で浮いているように思える。

姉ということになっている菊は参列したが、滝はできなかった。庄衛門が木倉の生き残りと知られてはならない。唯一の肉親である伯母に公然と祝ってもらえないことで、庄衛門は自分とは何者なのか、糸の切れた凧のように思えるのだった。

干物屋による盛大な式が執り行われ、婚儀を終えると庄衛門は鈴と御船の屋敷へ移り住んだ。干物屋の長女である鈴は女中を二人と下男を三人連れて来た。主人の期待の大きさの表れた計らいである。

庄衛門は鈴を連れて隣の味噌屋へ引っ越しの挨拶に行った。緊張の面持ちで味噌屋への角を曲がる。味噌屋は創業二百年、室町時代から続く老舗店であるが、門は崩れ落ちていてくたびれた店構えだった。桐のいた秀吉の時代から評判は落ち始めていて、今回の魚醤屋を追い出したという悪い噂が拍車をかけて客が減っている。戦国時代、固形調味料の味噌は戦へ持っていきやすく武士に重宝されたが、需要が多ければ味噌屋も増える。御船にはもう二軒味噌屋がある。黒い噂に客がほかの味噌屋へ移っていったのだ。

店へ入ると青白い顔の女が店番をしていた。味噌屋の女将だ。しげの長男の嫁である。庄衛門が隣で醤油屋をやることを告げると、「あんた」と奥へ叫んだ。すると主人より先に杖をついた老女が出て来た。しげである。緊張で顔が固くなる庄衛門であるが、胸を張りどすの利いた低い声で挨拶をした。

滝は庄衛門が燈一郎に似ていることから、庄衛門の素性が味噌屋にばれるのではと心配した。それで庄衛門は髭を生やした。声もよく似ていると言うので、毎朝朝日に向かって吠えるように大声を出して喉をつぶし、しゃがれ声にもしてある。

挨拶の品として干物を渡すと、魚臭さを嫌う重のはずなのに顔をほころばせた。遅れて主人が出て来たのだが、顔色の悪さは否めない。左目の下にあざのように大きなクマがあり、背中は丸まっていて疲れた印象を受ける。三人とも愛想などなく、挨拶をしただけで庄衛門たちは店を出た。あまりのみすぼらしさに拍子抜けのする庄衛門である。

気を取り直して醤油屋を始めることに集中した。蔵二つに置いてある魚醤の甕を一つだけ残して売っ払った。蔵の中を掃除しても生臭い臭いは消えないが、庄衛門には懐かしくて気持ちの落ち着く匂いである。自分の根源である魚醤。醤油屋に変えてしまうが、決して殺された家族のことを忘れないために一甕だけ残した。

滝が田北に醤油屋をやる若者が見つかったと知らせを送り、醤油の作り方を教えてやってほしいと頼んだ。それで醤油の生産が盛んな堺から醤油作りを指導しに一人来てもらえることになった。

大豆を茹でる窯と小麦を炒る窯を庭に二つ作り、醬油を発酵させる木の樽を蔵の中に六つ置いた。蔵の一角には板を敷き詰めて膝丈ほどの高さで囲い、麹を育てるための場所も作った。これで醤油を作る準備はできた。堺からの指導者、定之助と庄衛門と下男二人の四人で醤油作りを始めた。

堺から来た定之助は四十過ぎの男で、蔵の中の魚臭さに面食らった。こんなに魚臭くては醤油の風味が壊れてしまうと心配したが、魚の臭いはそのうち消えていくと庄衛門は気にしない。

魚醤屋から醤油屋へ。味噌屋の隣で庄衛門は醤油作りに励んだ。

その一方で、滝はある人物にふみを出した。宛名は豊後の燈一郎の姉である。文の内容はこうである。
「木倉の女中で生き残った菊が『坊ちゃん』と呼んでいる弟が、木倉の屋敷で醤油屋をすることになった」
燈一郎の姉は生き残りがいたことなど知らない。わざわざ滝が文をよこしてくるなんて、何かあるに違いないと感づいた姉は、お付きを一人連れてはるばる御船へ行くことにした。

姉は豊後の臼杵の漁師の大元締めへ嫁いでいる。還暦を過ぎた姉であるが、滝の文に心がざわつき、豊後街道を三十三里歩いた。

御船へ着くと疲れた体に生気がみなぎる。懐かしい生家へとはやる足で急いだ。そこには醤油作りに励む庄衛門がいて、髭を生やしていても、声を涸らしていても、姉にはわかる。燈一郎の息子であると。

一体どうやって生き残ったのかと問う姉に、ここでは話せぬと庄衛門は豆腐屋へ案内した。

燈一郎の姉が滝に会うのは燈一郎の婚儀の時以来、三十九年ぶりである。お互い髪は白くなりしわも増えて見違えたが、「おひさしぶりです」と再会を喜び合った。

菊が事の次第を説明し、庄衛門は醤油を作って仇を討つと宣言した。

醤油を食べたことのある姉は、これから味噌にとってかわるであろう新しい調味料に未来を感じている。戦乱が終わり新しい世になる今、年寄りたちは長く続いた戦に疲弊している一方、若者たちは希望に満ちている。醤油にのめりこむ庄衛門は今時いまどきの若者らしく輝いて見える。燈一郎もきっと喜んでいるだろう。
「おいしい醤油を作んなさい」
それだけ言って帰っていった。

菊に育てられて家族に縁のなかった庄衛門であるが、突然両親の姉二人に出会い、自分のことや両親の話を聞いたことで、ますます死んだ家族が恋しくなる。昼間は醤油作りに精を出すが、夜になると家族や木倉の使用人が理不尽に殺されたことに恨みが募る。

味噌屋には女の子一人と男の子が二人いる。壁で遮られているとは言え、子どもたちが遊びまわる楽しそうな声が聞こえてくる。みすぼらしく年老いた体とはいえ、重が息子家族と幸せに暮らしていることが許せない。なぜ悪者が生き長らえているのか。味噌屋へ押し入り全員の首を切ってやりたくなる。斧を振り回す自分を想像しては頭が痛くなる庄衛門である。

悪い者が早く死ぬわけではない。死ぬことは罰ではないのだと自分に言い聞かせても、穏やかに優しく生きていた両親たちは殺されて、欲で我を通すものが生き続けるという道理に合わない現実に身がよじれるような生き辛さを感じる庄衛門である。

難しい顔で顔をしかめがちな庄衛門を、
「醤油作りに根を詰めすぎるのは体によくありませんよ」
と心配する妻の鈴である。

鈴は荒れた庭を剪定させ、池の中も掃除をさせた。大きな干物問屋の娘である鈴は派手好きで、池に色鮮やかな赤い鯉を放った。一気に蘇っていく庭。そして翌年、待望の男児が産まれた。

子どもが生まれた年に、二年熟成させた醤油を清正公に献上することになった。さらなる注文は来るだろうかとそわそわする庄衛門である。待ちわびる庄衛門に年の暮れ、吉報が届いた。醤油を持って来るようにとの文が熊本城から来たのだった。

つづく


次話

【目次】
甲斐の国
日向の国
肥後の国
天草
吉利支丹
御船
相模の国
雑賀
御船

時代小説「梅すだれ」


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木花薫
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