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65 梅すだれ-御船

熊本城主せいしょこさんご用達となり忙しくなっていく豆腐屋「盛満」であるが、滝は店から手を引いた。番頭を雇って自分の代わりに帳簿をつけさせている。事実上の引退である。菊の産んだ女の子と男の子の子守をしながら、奥の部屋でのんびりと過ごすようになった。自分の産んだ息子の世話はあまりしなかった滝である。帳簿つけに忙しくて放っておいても、店にいる女たちの誰かしらが面倒をみてくれていた。大きくなっていく店で忙しい菊であるから、滝は進んで子守をした。

長崎で異国の船を襲撃したり、相変わらず侍たちは戦闘をしている。徳川家康も禁教令を発し、吉利支丹を目の敵にするようになった。それでも平穏に過ごしていたある日、流れ者の夫婦が木倉で魚醤屋をすることになった。

木倉の主人で桐の夫、燈一郎には豊後に嫁いだ姉がいる。姉の旦那が燈一郎たちが売国吉利支丹として処刑されたことを隠し、伊予から越してきた元は漁師の夫婦に屋敷を売ったのだ。こうやって木倉を襲った痛ましい事件が忘れ去られていくのだと思っていたら、逆に蒸し返すことが起こった。

味噌屋がまたしても魚醤屋へ嫌がらせをして、魚醤屋は夜逃げのごとく姿を消したのだ。味噌屋からの嫌がらせを桐から聞いていた滝は、変わらない味噌屋に呆れていたのだけど、嫌なうわさが聞こえて来た。木倉を売国吉利支丹として奉行所へ言いつけたのは味噌屋だというのだ。

桐たちが忽然と居なくなった時に、何が起こったのかを語ったのは味噌屋だった。味噌屋だけが知っていた。滝は重のあまりの仕打ちに頭が痛くなり、めまいがするようになった。また桐を九州へ連れてきた罪悪感にさいなまれて自分を責めた。

(雑賀からお桐を連れ出したのは間違いだった。いや、自分も雑賀を出なくてよかった。マサと雑賀で暮らせばマサも死ななくて済んだはず)

こみ上げる雑賀への郷愁が滝に絵を描かせた。墨で懐かしい紀の川や寺や村、握り飯を売り歩いた浜を描いていると、心が落ち着くのだ。

そうやって自分を慰めていたところへ、味噌屋の噂を聞きつけた菊が部屋に来た。許せないと泣き伏している。あれから十八年も経つというのに再燃した恨み。時間が消し去ることのできない痛ましい悲劇から目をそらし続けることはできない。滝は思い切って気になっていることを尋ねた。
「おまえが『坊ちゃん』と呼んでいる弟は庄衛門なのですか?」
干物屋へ奉公している菊の弟はしょっちゅう菊に会いに来る。ちらりと見かけた時に滝の体に戦慄が走った。燈一郎によく似ているのだ。がっしりとした体格の良さも、横顔も、そしてなにより声がそっくりなのだ。
(もしや庄衛門が生き残っていた?)
禁教令が再び出されて吉利支丹の弾圧が強まっていく手前、知らぬ振りをしていたが、処刑後に晒された首に子どものはなかったとコウゾは言っていた。流石さすがに子どもの首をさらすことはできなかったのだろうと思っていたのだけど、味噌屋が木倉を皆殺しにしたことを弟から聞いたと言うではないか。弟のことを確認せずにはいられない。

滝からの問いに菊は涙を流しながら、
「そうです。庄衛門坊ちゃんです」
と白状した。蔵の地下にあるマリア様を礼拝する穴に庄衛門がいたと。

秀吉が伴天連追放令を出したことで、滝は桐たちが吉利支丹であることを強く心配した。桐も幼いころに村打ちを経験していることから、残虐な侍たちに吉利支丹であることでいつかひどい目にあわされるかもと不安になった。それで燈一郎は商売が繁盛して蔵を新設するときに地下に穴を掘り、そこでこっそりと礼拝をするようになったのだ。

魚醤屋「木倉」は何代も前から吉利支丹であったが、先代の女将が突然亡くなったことをきっかけに桐と燈一郎は聖母マリアに強く惹かれた。早くに母親を亡くしている桐は、母というものを強く求める傾向があり、マリアの存在に強くのめりこんだ。燈一郎も後継ぎとして母親に手塩をかけ大事に育てられていたことから、突如亡くなった母への思慕が強かった。イエスよりマリアを強く崇拝し始めた二人は、ただマリア像を拝めればそれでよかった。地下でマリア様を拝むことは土に還った母親に、より近づけるように感じてもいた。

地下のことは滝も知らなかった。そうやって隠したことで、悪さをしているという疑いを引き出したのだろうか。しかし吉利支丹であることを公言することは憚られる昨今、誰もが家で秘かに信仰をするようになっている。桐たちだけ売国扱いされることは納得がいかない。しかし何をどう考えても後の祭り。桐たちは殺されてしまった。無念でならない。しかし庄衛門が生きていたというのは嬉しい。ところが味噌屋への恨みを募らせているというのは悲しい。せっかく桐が残した庄衛門なのだから幸せに生きてほしい。滝は庄衛門と会って話すことにした。

つづく


次話

【目次】
甲斐の国
日向の国
肥後の国
天草
吉利支丹
御船
相模の国
雑賀
御船

時代小説「梅すだれ」


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木花薫
小説「梅すだれ」を連載中です!皆様の支えで毎日の投稿を続けられています。感謝の気持ちをパワーにして書いております!