34 梅すだれ-雑賀
アヤは店の前の坂ではなくて、店の裏にある畑の横の坂を上った。
紀ノ川と雑賀川に挟まれたこのあたりには村が八つある。これをまとめて雑賀荘という。げん爺は雑賀壮の西の端にあるこの村の頭をしている。
木の茂る小道を上っていくとすぐに村に着いた。十五軒ほどの家が建っている。その小さな規模はタカベたちの住んでいた村とよく似ている。
アヤに目で合図をされて東へと歩く。アヤは村の東の隅の家の前で立ち止まり、ここだと首を振った。タカベが「ごめんください」と声をかけると、「来たか」と元気のいい声がしてげん爺が出てきた。
「大変やったなあ。鎌倉から逃げて来たんやろ。ここは平氏の土地や。源氏なんかあかんわ。ここやったらそないなことにはならへん。安心せえ」
タカベを見るなり、げん爺は平氏と源氏の話を始めた。
「源氏に見切りをつけたんはえらいで。平氏こそが最強や。そりゃ負けたで。負けたけども源氏は滅びたやろ。しかし!平氏は滅びてへんねん。わいらの先祖は平氏や。その魂を継いで今では大名よりも強いわ」
がははと、歯のほとんどない口を開けて笑っている。雑賀が鉄砲を製造して自衛しているのは、源平の合戦に敗れて落ち延びた平氏がここに住み着いて武装したことが始まりだと言い伝えられているが、四百年も前のことで伝説のような話だ。
タカベは面食らった。いったいヒデの夫は何を言ったのだろうか?これがヒデの言う「うまいこと言う」なのだろうか。「源氏を捨てて平氏へ逃げてきた」としてこれから生きていくことになるのだろうか。娘二人はどんな扱いを受けることになるのだろうか。不安が足元から胸のあたりへざわざわと這い上がってくる。
「船頭をやっとったんやな。でも子どもが大きくなるまでは陸におりたいんやな。ええで。ここはみんな山ん中で生きとるわ。でも船がええやろ。船を作っとんのがおるで紹介したるわ」
齢八十歳のげん爺であるが、しっかりとした足取りでタカベたちを村の中央にある家へ連れて行った。
「メギ、おるか」
家の前で魚を焼いている女はげん爺を見ると、
「あんた、げん爺が呼んどるで」
と家へ向かって叫んだ。すると玄関からひょいと男が顔を出した。
「なんや。どないした?」
とタカベたちを見回す。
「源氏はもうあかんねん。鎌倉から逃げて来たんや。平氏様になりたい言うてな」
がははと笑うげん爺にタカベの顔は青ざめた。
(これからここでどんな扱いを受けることになるのだろうか。浦賀を出たのはやはり間違いだったかもしれん)
うつむくタカベであったがメギは、
「げん爺、なにを言うてんねん。わっけわからん」
とげん爺の源平話の相手などしない。
「こいつはタカベや。娘二人連れてここに住むことになった。嫁と息子は賊に殺されたんや。ひどいやろ。鎌倉はそんなんや。しかし!ここはそんなことはあらへん。平氏の御霊がお守りくださるんや」
と平氏の土地がどれほど頑強で安全かを話し始めたのだが、メギの嫁が、
「あの家に住むん?ちょうどええやん。空いたとこや」
と割って入った。げん爺以外に平氏の話をする者はいない。ほっとするタカベは、
「よろしくお願いします」
と頭を下げた。それに次いでげん爺は本題へ入った。
「そやそや。こいつはな船頭をしとってん。でも子どもがちっちゃいやろ。大きなるまで海には出たない言うてんねん。おまえといっしょに船を作るんがええやろ」
「ええで。明日の朝ここへ来たら連れてったるわ。子どもは寺子屋やな。うちの坊主と一緒に行ったらええ」
「よろしくお願いします」
タカベはもう一度頭を下げた。それに続いて滝も頭を下げた。すると滝を真似して桐も頭を下げた。それを見てアヤがふふっと笑った。
げん爺は続けて村の西にある空き家へタカベたちを連れて行った。
「ここや。お前らには広いなあ。でも子どもがすぐに大きなるやろ。残っとるもんを使ってええ。米は明日取りに来い。今日はヒデんとこで食べたんやろ。明日の朝は隣からもらい。言うといたるわ」
それだけ言うとげん爺は帰っていった。
アヤが手招きをするので滝と桐がついていくと、家の外の南側に畑がある。そこには野菜が実っている。アヤが丸いのをひとつ採って滝に渡した。
「これ、なに?」
手毬のように丸い野菜だ。アヤが(食べてごらん)と口をパクパクさせるから、滝はかぶりついた。
「なすだ」
「ねえちゃん、わたしも」
滝の手ごと掴んで桐もかぶりついた。
「ほんとだ。なすだ」
ナスのほかにもキュウリやひょうたんの形のかぼちゃなど見たことのない珍しい形の野菜がなっている。これらは京都からもたらされた野菜だ。この家に前に住んでいた者は京都から越してきて住んでいた。そして今度は土佐へ越していった。港ではよくあるが、雑賀のこの村でも人の出入りはめずらしくない。海から来てまた海から出ていく。また誰かが来るだろうと、アヤが畑の野菜の世話をしていたのだ。
翌朝はげん爺の言った通りに隣の家から粥をもらった。隣りの一家は先祖が九十年前に京都から越してきたそうで、外から来たタカベたちに好意的である。
朝ご飯を食べ終わると滝と桐は村の子供たちと寺小屋へ行き、タカベはメギに連れられて山へ入った。山から木を切り出す作業を手伝うのだ。
四人一組で一本の木を切り倒していく。それはタカベが十代の頃に父親や村の人たちとやっていたことだった。しかし木の伐採を嫌う兄カブトが港で船乗りの手伝いをするようになり、
「海はいいぞ、おまえも来い」
と誘われて浜で船の仕事をするようになった。
昔のように木を切り出しているとまた兄ちゃんが来て、
「タカベ、お前何してるんだ。海へ来い」
と誘いに来るような気がする。そんな日がいつか来るかもしれない。希望ともいえる期待を胸の奥で転がすタカベである。
昼過ぎに家へ戻るとハモがいた。新しい筵や大きな鍋を持って、
「どないや。足りんもんあるか?」
と家の中を見回している。湯を沸かすだけの小さな鍋しかないので、粥を作れる大きな鍋は助かる。
「ありがとう」
とタカベが銭を渡そうとすると、
「ええねん、ダッさんから貰っとんねん。タカベエの世話したりて頼まれてん」
ダツはタカベが払った子供の船賃をそのままハモに渡した。銭を突っ返されるより、こうして必要なものを用意してもらえる方がどれほどありがたいか。このあと一年間、季節が変わるごとに「これいるやろ」とハモはタカベ家族に何かしら持って来る。こんなんだからタカベが雑賀へ来て困ることなどないのだった。
子供たちは寺小屋で字を習ってくる。それはタカベにはうらやましくもあり喜ばしいことだった。字など習ったことのないタカベは船頭をするようになった時、字を読めないことでほとほと困った。荷を誤魔化されたり銭を騙し取られたりしたのだ。必死に字を覚えたあの苦労を子供たちがすることはないのだと思うと、雑賀へ来て本当に良かったと思える。
最初の心配はどこへやら、すんなりと溶け込めた雑賀の村でタカベは毎日を淡々とのどかに暮らした。ただし滝のことを除いては。
滝と桐は寺小屋が終わるとハモの家へ行く。桐と同じ年の孝と仲良くなり、孝の母親に料理やら裁縫やらいろんなことを教わっている。母親を亡くした二人を孝の母親は不憫に思い、喜んで母親代わりをしている。しかし孝の母親になついているのは桐だけで、滝はそうでもない。
孝には弟がいて、自分たちが失った母と弟のいる孝の家にいると滝は居心地が悪い。孝の家にいると浦賀の家のことを思い出すのだ。孝の家へ行かずに畑で野菜の世話をする日が増え、タカベに「浦賀へ帰りたい」と言うのだけれど、タカベは「忘れろ」の一点張り。
寝付けない滝は暗闇の中横で寝ているタカベの着物を引っ張り、
「父ちゃん浦賀へ帰ろうよ。母ちゃんとセイゴがさみしがってる。帰ろう」
と駄々をこねるようになった。
「母ちゃんとセイゴは土ん中で安らかに寝てる。もう忘れろ」
と何度タカベに言われても浦賀へ帰りたがる。それでタカベは子どもたちと離れて寝るようになった。それでも飯を食べている時や雨で家の中にいる時や、しょっちゅう帰りたいとせがまれる。
「忘れろと言ってるだろ」
と怒鳴りつける時もあるが、滝が浦賀のことを話すことはなくならない。それどころか、まるで網とセイゴを殺した賊を睨みつけるようにタカベを見る。
桐と違って滝は雑賀の人たちとあまり付き合わない。浦賀のことばかり考えて新しい土地になじめないでいるのだ。ここで幸せになってほしいと願うタカベは、きっと時が経ち大人になればわかるようになるだろうと、滝の戯言に耳を貸さないように心がけるのだった。
つづく
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