68 梅すだれ-御船

熊本城からの注文に喜ぶ庄衛門と定之助である。これでお役御免となるはずの定之助であったが、どうか残ってほしいと懇願する庄衛門。妻を亡くして独り身の定之助である。娘が一人いるが嫁いでからめっきり付き合いはない。野心家で頭も切れ努力を怠らない庄衛門を定之助は気に入っている。堺へ戻るより、名公と誉れの高い加藤清正公に献上する醤油を作るほうが良い暮らしができると考えた。庄衛門の切な願いに折れる形で、このまま御船に暮らそうと決意したのだった。

残ると決まると、定之助も威勢よく宣言した。
「もう一つの蔵いっぱいに醤油樽を並べたるわ」
それに応えて庄衛門も声を上げた。
「もう二つ蔵を建ててやると」

拡大を続けていたのに途中ですべてを絶たれた木倉の無念を晴らしたい。木倉を超える規模の店にして味噌屋を見返すのだ。
(死んだ父上と母上と兄上たち、使用人たちの無念をおいが晴らす!)
庄衛門は強く心に誓った。

大きな屋敷で子どもも生まれ、殿さまご用達の醤油屋になった。外から見れば裕福で幸せな庄衛門であるが、心の奥底は復讐で黒くよどんでいる。その心が子どもに現われたのだろうか。生後半年で息子が死んでしまった。

悲しむ妻の鈴。庄衛門はなぜ自分の子どもが死ぬのか、なぜ味噌屋のではないのかと、またしても理不尽であると憤った。しかし滝にこう言われた。
「味噌屋が子を失った気持ちがわかるのではありませんか。隣の家では元気な子どもたちが走り回り、新たにもう一人生まれた。その時の味噌屋の気持ちが」
なぜ味噌屋の気持ちなどをわかる必要があるのか。あの悪人どもの気持ちなどわかりたくもない。心を閉ざす庄衛門に菊は言った。
「坊ちゃん、仇を討つなどと考えてはなりません。そのような心では坊ちゃんに災いが降りかかります。許しなさい、坊ちゃん」
何よりも庄衛門が幸せになることが味噌屋への復讐になるのだと、菊と滝は言い聞かせた。

庄衛門は自分が息子を殺したと言われて頭がくらくらとした。親兄弟の仇を討ちたい心が災いを呼ぶなど、理不尽ではないか。なぜこうも理不尽なことばかりがまかり通るのか。

夜眠れない庄衛門はまだ使っていない新しいほうの蔵へ入った。いつかここも魚ではなく醤油の臭いを充満させてやる。その願いで胸を膨らませながら隅へと歩く。行李をどけると敷いてあるむしろをめくって板を上げた。人が一人通れるほどの穴が開いている。この下に両親の作った礼拝所がある。

ろうそくを置くと足から穴の中へ入った。背伸びをすれば穴の外に手が出る。ろうそくを掴み穴の中を照らすと、マリア様の姿が浮かび上がった。マリア様の絵が掛けられているのだ。自分が幾つかもわからないほど幼い頃に見た覚えがある。あの頃のままの姿で優しく微笑んでいる。

庄衛門は思い出した。母の膝の上でこのマリア様を拝んだことを。

暗い穴の中に入るのは怖かったが、中には光を放つマリア様がいて、その美しさに怖さなど吹っ飛び、心は落ち着いた。父が何か唱えて最後に母と兄たちも一緒に「あめん」と言った。
「庄衛門も言いなさい」
と言われて意味も分からず「あめん」と言う庄衛門であったが、マリア様に通じる唯一の言葉のような気がした。

庄衛門は父が唱えていた言葉を思い出せないことが悔しかったが、マリア様を見つめ「あめん」と唱えた。

 穴から出ようと出口を見上げた時、あっと母の顔を思い出した。あの日、最後の日、母に抱かれてここへ入った。
「しばらくここで静かにしていなさい。出てきてはなりませんよ」
と木彫りのマリア像を渡すと、母は自分だけ穴の外へ出たのだ。

鮮明に蘇るあの日の記憶。

あの日の朝、たくさんの侍が店にやって来た。
「何事ですか」
と対応する父に続いて兄たちもも勇ましく出て行った。兄たちを追いかけて出ていこうとする庄衛門であったが、血相を変えた母親に抱きあげられて蔵へ連れていかれたのだ。

侍たちが来たとき、桐は咄嗟に浦賀の記憶が蘇った。三十二年前の恐怖が蘇ったのだ。刀を持った侍たちが村へ来たとき、母に洞窟に隠れるように言われた。考えるまでもなく桐は庄衛門を抱き上げると、蔵の隅の穴へ隠した。真っ暗な穴の中から心配そうに見上げる庄衛門に、
「あとから来るから待ってなさい」
とは言えなかった。

浦賀で母と最期の時、母に「あとから行くから」と言われて待ち続けたけれど、母が来ることはなかった。何が目的で侍が来たのかはわからないけれど、暗い洞窟の中で待ち続けた辛さを庄衛門に味わわせたくない。桐は大切にしているマリア像を庄衛門に託した。
(必ずマリア様が守ってくださる。たとえ自分が死んだとしても姉ちゃんと私が助かったように庄衛門も助かるはずだ)
と確信にも近い予感があった。

真っ暗な中、庄衛門は母が来ることを、父や兄たちが来ることを信じて待ち続けた。腹も減り、起きているのか寝ているのかもわからない。闇へ同化するように気を失った。

家族との最後の記憶を取り戻した庄衛門は、その夜夢を見た。穴の中で父と母と兄たちと礼拝をしている。目が覚めた時、この屋敷へ住み始めて初めての安らかな気持ちでいた。

次の日、庄衛門は菊に会いに行った。穴の中へ入ったことを話し、父が唱えていた言葉を知りたいと相談した。
「旦那様のお言葉は私にもわかりません。坊ちゃん、吉利支丹になって危うい目にあいたいのですか。おやめなさい」
と言いながらも、菊は庄衛門を部屋に待たせて裏庭へ行った。

秀吉に続き江戸幕府も禁教令を出しているが、吉利支丹はたくさんいて礼拝も行われている。それでも菊は嫁いできてからはマリア像を手に取ることはない。滝からやめるように言われたからだ。滝は桐が話したあの事を気にしている。重からの嫌がらせを話した時、桐はこう言った。

「金次郎さんのお祓いの時、マリア様を私が持っていたことにお重さんは気づいていたみたいで。邪教のせいでお祓いがうまくいかなかったって言ってるらしくって」

もしかしたら重は吉利支丹に恨みを募らせているのかもしれない。それは吉利支丹ではない者たちの本音かもしれない。吉利支丹の嫁だと外の者に知られて桐の二の舞になることを恐れたのだ。吉利支丹であることを周りの者に気づかれてはならないと言いつけた。それで菊はマリア像を裏庭の木の下に埋めた。そして毎日その木に向かって祈っている。

菊は木の下を掘り起こすと布にくるまれた物を取り出した。土に汚れた布をはぎ取るとそこには今も優しく微笑むマリア様がいる。庄衛門の元へ戻り、
「奥様が坊ちゃんに託したマリア像ですよ」
と渡した。
「誰にも気づかれないように気を付けてくださいね」
と言われて、庄衛門はあの穴の中へ置いたのだった。

つづく


次話

【目次】
甲斐の国
日向の国
肥後の国
天草
吉利支丹
御船
相模の国
雑賀
御船

時代小説「梅すだれ」


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木花薫
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