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23 梅すだれ-天草

村では春になると豊作を祈って相撲大会が行われる。その時に使われる土俵は村のはずれの小高い丘にある。そこに村人全員が集められ、土俵の周りに組ごとに座らされた。

組頭の点呼が終わると作之助が土俵に上がり、声を張り上げた。

「みんなよう集まってくれた。絵踏みを行うけん。東の村で隠れキリシタンが殺されたのはみんな知っとるなあ。これはみんなの為にやるんや。今からわいがするように踏めばええけんねえ」

そう言うと二枚の踏み絵を高々と掲げた。右手に持っているのはイエス、左手のにはマリアが彫られている。両腕を上げたまま、皆が見えるように土俵の俵に沿って一周すると、中央の仕切り線の上に一枚ずつ置いた。

まずはイエスの踏み絵の上に両足を揃えて乗った。真っ直ぐ前を見ながらしばらく立ち尽くす。次に、マリアの踏み絵も同じように両足で踏んづけた。

踏み終わると作之助は土俵の脇に立ち、妻であるお里の名まえを大声で呼んだ。お里が土俵に上がり、同じようにイエスの踏み絵の上に両足で乗り、心の中で三つ数えた。作之助にそうするように言われたのだ。お里はこの絵踏みで悪いことが起こりませんようにと両手を合わせて目をつぶった。

マリアの絵も踏み終わると、次は松之助の番。作之助はまたしても大きな声で「松之助!」と叫んだ。こうやって名前を村人に聞かせるのは、誰が踏んでいるのかを周知させるためだ。お里が踏めば村の女たちがそれに倣って踏むだろう。松之助が踏めば、若い者たちが踏みやすくなる。お清や栗之助が踏むのを見れば、子どもたちが手本にするだろう。そんな魂胆で作之助は山から跳ね返ってくるほどの大きな声を張り上げている。

名まえを呼ばれた松之助は、もう殴られた時のようにしょげ返ってなどいない。この絵踏みは吉利支丹と決別するいい機会だと、気持ちを切り替えてある。三日たっても鮮やかについている顔の痣。寺へ通い始めた松之助はもうそれを恥ずかしいとも思っていない。それどころか、この絵踏みの日まで痕がくっきりと残っていてよかったとさえ思っている。なぜなら自分の過ちの償いは、この顔の赤い掌を見せることだから。吉利支丹への信仰がどれほど自分を傷つけるのかをわかってほしい。

村の隠れキリシタンたちが迷うことなく踏み絵を踏めるようにと、松之助は作之助のように真っ直ぐ前を見ながら堂々と踏み絵の上に立った。二枚目の時は力士が土俵の中央に向かって立つように向きを変えた。それは左の頬の痕を皆が見えるようにと考えてのことだ。

松之助の願いが通じたかのように、その姿を見た七太郎は松之助をイエス様だと思った。頬に痣をつけつけているのは、隠れキリシタンの罪を肩代わりしてくれているから。まるで皆の罪を背負って磔になったイエス様ではないか!

松之助に失望して村を出て行った六一郎とは逆に、七太郎の松之助への憧れは強くなった。

(あんちゃんもこれを見ればよかったと。長崎に行かんとも、イエス様はここにおるたい)

七太郎は生まれた時からずっと頼りにして生きて来た六一郎を、心の中とは言え初めてなじったのだった。

松之助に続いてお清と栗之助も踏み終わると、大頭の太郎兵衛家族と馬四郎家族、続いて各組頭の家族が踏んだ。そしてひの組から順に踏んでいったのだ。組頭が名前を呼び、呼ばれたものは土俵に上がり踏み絵の上に立った。女の中にはお里のように手を合わせる者もいた。七太郎は松之助のように前を見ながら踏み絵に乗り、二枚目は向きを変えた。

小一時間で全員が踏み終わり、踏めない者がいなくて安心した作之助である。踏まない者の処遇は非情なことになるはずだったから、消えてしまった六一郎たちのことは踏めないからと潔く出て行ってくれて良かったと、肩の荷が下りた思いだ。ただ、六郎太と七郎太の家族についてはしばらく注意しておかねばと慎重にもなっている。特に六一郎と兄弟のように親しい七太郎からは目を離さぬようにしなければならない。

しかしそんな心配は無用であった。なんと七太郎は松之助について延慶寺へと通い始めたのだ。

つづく


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木花薫
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