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57 梅すだれ-御船

コウゾの求婚から数カ月したある日。魚醤屋「木倉」の下男が、
「女将さんが会いたいと言っとっと」
と桐を呼びに来た。女将さんからの呼び出しは初めてではない。三月に一度、季節が変わるたびに呼び出されている。魚醤を使った料理を教わったり、料理道具の箸や鍋やよく切れる包丁をもらったり懇意になっている。いつものことだと気にせず、店を滝に託して出かけた桐であったが、帰って来るとなにやら様子がおかしい。蒸気した顔で興奮をこらえようとして無口になっている。

食べたこともない美味しい料理を知るとそうなる桐であるから、またおいしい料理を教わって来たのだろうと、滝は気にも留めなかった。しかしその日の夕飯の時に、脳天が震えるようなことを桐から言われた。
「女将さんから嫁に来てほしいって言われた」
瞳孔の開いた大きな目で、喜びを必死に隠そうと口をきゅっと閉める桐。嬉しいはずなのに裏腹な言葉、
「断ってもいい」
をかすれた声で絞り出した。
「なんでよ」
と声を荒げる滝に、桐は困った顔で、
「ねえちゃん、コウゾと豆腐屋をする?」
と滝の顔を下から覗き込んだ。

桐はコウゾが滝と豆腐屋をしようとしていることを知っている。コウゾから、
「お滝ちゃんと豆腐屋をしたいと。お桐ちゃんを一人になんかさせん。豆腐屋で飯屋をすればいい。豆腐を買いに来た客にうまいもんを食べさせてやってくれ」
と言われて桐は何も言えなかった。御船川沿いの飯屋だからたくさんの客が来る。田んぼと畑しかない甘木で飯屋をしたって客なんか来るはずがない。滝が出ていくのなら桐は一人で飯屋を続けることになる。だからか滝はコウゾと豆腐屋をするとは一言も言わない。桐に遠慮しているだけか、はたまたマサのことを忘れられずコウゾと一緒になりたくないのか。滝の本心は桐にはわからない。滝に確認することは怖くてできない。コウゾと豆腐屋をやりたいと言われたら一巻の終わりだ。滝が言うまでは訊くまいと、知らんぷりをしていた。しかし状況は変わった。木倉に嫁げることになったのだ。願ってもない話に嬉しさを隠し切れないが、滝のことは気にかかる。コウゾと豆腐屋をするつもりがないのなら、滝を置いて出ていくことなどできない。

桐にコウゾとのことを問われた滝は「ん」と言葉を詰まらせて目を逸らした。滝は一瞬で悟った。滝がコウゾと一緒にならないのなら、桐はこの縁談を断るつもりなのだと。城下町の老舗の魚醤屋である由緒正しい家へ嫁げるというのに、滝のために断るつもりなのだ。そんなことをさせられるわけがない。マサがいなくなってから滝は桐を雑賀から御船に連れてきたことを激しく悔いている。雑賀での幸せな暮らしを桐から奪ったことは、後悔してもしきれない。

マサは御船に来てからしきりに桐に男を捜していた。その時ふと漏らした言葉があった。
「お桐ちゃんには海の男は合わんかもな。陸の男がええやろ」
きっとマサが燈一郎のことを知ったら喜ぶはずだ。この男を捜していたのだと。

それがなくとも燈一郎と桐は似合いであると滝はずっと思っていた。二人が惹かれあっているのも、女将が燈一郎を桐にあてがうように使いに出すことも重々わかっていた。二人の邪魔などできない。してはならない。いまこそ免罪の時だ。桐を嫁がせることで御船に連れてきたことが許される。コウゾと一緒になるしかない。マサのことは忘れよう。

滝はその夜眠れなかった。マサのことを考えるのはこれが最後だと、ひとつ残らず思い出している。マサの言った言葉、マサの笑顔、腕、胸、抱き合った体、すべてを思い出して夜を明かしたのだった。

一睡もしなかった滝と同じように桐も眠らなかったようで、二人して赤くなった目で朝ごはんを食べた。

箸の進まない滝と違い、いつにも増してたくさん食べる桐である。滝は覚悟を決めた。
「わたしコウゾと豆腐屋をやるよ」
「ねえちゃん、いいの?」
力強くうなずくと滝は桐の目をまっすぐに見つめた。
「わたしうれしいの。桐がいい人と出会えて。おめでとう」
「ありがとう」
と破顔する桐。こんなふうに桐が笑うようになったのは燈一郎と出会ってからだ。
(これでいい。これでお桐が幸せになれる。マサも喜んでる)
確かな自信を感じる滝である。
「父ちゃんに手紙を書こう」
飯屋を始めた時に手紙を送ったきりになっている。桐の結婚を知らせたいし、何よりマサが亡くなったことを知らせなければならない。

タカベに知らせればマサの親元へも知らせが行くだろう。そうすれば本当にマサは死んだことになる。もしかしたらマサは帰って来るかもと微かな望みを捨てきれない滝であったが、手紙を送ることできっぱりマサを葬れる。

タカベへの手紙こそが滝にとってのけじめ。まだコウゾにも話していないと言うのに、桐もまだ木倉へ返事をしていないと言うのに、滝は手紙を書いた。長い長い手紙を。

マサが亡くなったこと、飯屋は繁盛していてその手助けをしてくれているコウゾと豆腐屋を始めること、桐は父ちゃんが腰を抜かすほどに立派な家、老舗の魚醤屋「木倉」へ嫁ぐこと。二人であれも書こう、これも書こうと飯屋の準備をほっぽり出して手紙を書きふけった。

書き終えると長崎へ行く船の船頭に、雑賀のタカベへ届けてほしいと渡した。長崎で堺へ行く船に乗り、堺で雑賀へ行く船に乗りタカベの元に届くだろう。

手紙を渡したら、引導を渡されたように滝の胸にぽっかりと穴が開いた。雑賀を出た時に夢見た九州での生き方とはまったく違う人生が始まろうとしている。この土地の男と一緒になるということは、雑賀とも縁を切るようなもの。マサとの子どもが船乗りになって雑賀のタカベに会いに行くことを夢想したこともあったが、コウゾとの子どもにそんなことが起こることもないだろう。海との決裂さえも感じる滝である。

こうして滝と桐は肥後の男に嫁いだのだった。

つづく


次話

【目次】
甲斐の国
日向の国
肥後の国
天草
吉利支丹
御船
雑賀

時代小説「梅すだれ」


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木花薫
小説「梅すだれ」を連載中です!皆様の支えで毎日の投稿を続けられています。感謝の気持ちをパワーにして書いております!