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37 梅すだれ-雑賀

それからというもの滝は墨絵を書くために寺小屋へ行くようになった。ほかの子どもたちが暗唱をしようと院主の話を聴こうと、滝はお構いなしに墨絵を描き続けた。院主もそんな滝を咎めることなくむしろ、
「境内に咲いている花を描いたらどうや?」
と勧めるものだから、滝は益々墨絵を描くことに熱中できた。

ある日ちいが花を摘んで来た。
「おタキちゃん、これ描いて」
と差し出したのは、黄色い五枚の花弁がお星さまのように見える女郎花おみなえしだった。滝は女郎花を胸の前で両手で持っているちいの絵を描いた。すると「これわたし?」と喜ぶちい。その声に女の子たちが「私も描いて」と集まってくる。滝はその子に似合いそうな花を選んで描いてやった。
「母ちゃんの絵も描いて」
という子もいて、毎日お滝は誰かの絵を花と一緒に描いた。しかし冬になると山は色をなくし花も咲かなくなり、描いてと言ってくる子もいなくなった。滝はみんなが文字の練習をしている時は絵を描くが、暗唱や院主の説法の時には手を止めるようになった。前ほどご院主の話に反発心が出ないし、念仏を唱えれば死んだ母ちゃんたちに滝の声が届くと言われて、積極的に念仏を暗唱するようにもなった。

素行の良くなった滝であるが、ある日のこと、ふと浦賀の家の前に咲く芍薬の花を思い出した。それは鎌倉祭かまくらまつりで母ちゃんが買って植えた花だ。

飢饉が起こり上杉謙信との戦いも始まり政情が不安になり始めた時、北条家の安泰を願って家族みんなで鎌倉祭の流鏑馬を見に行ったことがあった。疾走する馬の上から侍が次々と的を射るのは圧巻で、相模の国は大丈夫だと父ちゃんと母ちゃんが笑い合っていた。夜にはしずかの舞があり、タカベに肩車をされた滝は、見物する皆の頭の上からそれを見た。美しい白塗りの女性が扇を手に優雅に踊る姿は、桐と肩車を交代したくないほどに見惚れた。

舞い踊る静御前の周りにはぼんぼりが灯されていた。母ちゃんの買った芍薬はあのぼんぼりのように、土からまっすぐに伸びた茎の先に大輪の花を咲かせる。芍薬が咲くたびに滝はあの静の舞を思い出した。

滝は懐かしい芍薬を墨で描いた。畑で作業をする母ちゃんの後ろ姿も描いた。するとすぐに桐が、
「ねえちゃん、それ」
と目を輝かせた。幾重にも花弁を重ねて豪華に咲く芍薬を桐も覚えているのだ。
「父ちゃんにみせようよ」
と桐はその絵を家に持って帰った。そして夕飯の時にタカベに見せたのだが、タカベが喜ぶことはなかった。憮然とした表情のタカベに滝は、
「父ちゃん、覚えてないの?母ちゃんが鎌倉祭で買った芍薬だよ。あの時の静の舞覚えてる?きれいだったあ」
と恍惚の顔になるが、タカベは苦虫をつぶしたような顔をしている。と言うのも静御前はこう歌いながら舞っていたのだ。

しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな
(義経にしづ、しづ、と繰り返し呼ばれたあの頃のようであったらいいのに-静御前)

静の舞は亡き義経を恋い慕う舞。網を失ったタカベには他人事ではない悲痛な舞である。

タカベはおもむろに立ち上がると桐の手から絵を奪い取り、激しく音を立てて引き裂いた。 滝と桐は驚いて声を出すこともできない。口をぽかんと開けて、破いた絵を火にくべるタカベを見ている。
「昔のことは忘れろ」
タカベは一言だけ言ってまた食べ始めた。

しかし滝はもう食べることなどできない。心はあの絵と同じように引き裂かれたのだ。痛みに耐えられない滝は、
「浦賀へ帰りたい!」
と叫んだ。
「帰れるわけねえだろ。武田信玄にも攻め込まれて相模は荒れてる。浦賀にはもう住めねえ」
「船に乗せてもらってわたしひとりでも行く」
「馬鹿野郎。男ばかりの船に乗ってどんな目に遭うと思ってんだ」
タカベは男たちに輪姦された網の死に様を思い出して苦痛に顔を歪めた。

滝は居ても立っても居られず箸を置くと家を飛び出した。しかしもちろん浜へは下りていかない。父ちゃんの言うとおり海の男たちが危ないことは十四になるお滝には重々わかっている。家の横の畑の中に突っ立っていると、桐が来た。
「ねえちゃん」
心配する桐に、
「だいじょうぶだから夕飯食べな」
と言っても桐は家へ戻ろうとはしない。微動だにせず滝の横にぴたりと立ち尽くす桐に、滝を置いて自分だけ家へ戻ることを桐がするはずないと滝にはわかる。いつだってそうだ。どんな時も滝のそばにいる桐だ。仕方ないと滝は桐と家へ戻った。 タカベはまだ食べていて、滝を見ても無言でご飯を掻きこみ食べ続けた。滝も何も言わず、残りのご飯を飲み込むように食べると椀と箸を洗い、寝床へ行ってふて寝した。

そしてその日から墨絵を描くことをやめてしまったのだった。

つづく


次話


【目次】
甲斐の国
日向の国
肥後の国
天草
吉利支丹
御船
雑賀

時代小説「梅すだれ」


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木花薫
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