18 梅すだれ-天草
一行は道らしきものを辿って上へ上へと山を登ったが、突然道を外れて左へ入った。しばらく歩くとまた道がある。その道は平らなまま続いていて、歩いていたら左側が谷になった。足一つ分の幅しかない山の端を、滑り落ちないように慎重に進んでいく。
どこへ連れて行かれるのか。帰って来られるのか。
松之助が不安になり出した時、橋を渡り始めた。橋と言っても向こうの山へ渡るために置いてある木で、簡易なもの。向こう側まで一尺も離れていないから、落ちそうになることもなく三歩で渡ってしまえた。
次の山も上へ上へと歩いて行った。さっきの山よりも高くて、登っても登ってもまだ登れた。そろそろ頂上という時に右へ逸れて、今度は下り始めた。急な斜面を降りていくと開けた場所に出た。そこは二尺四方に木のない広場で五人の人がいて、すぐにもう六人が来た。この山の麓の者たちだろう。誰もがほっかむりで顔を隠して俯いている。
一人が広場の奥の椿の木に絵を掛けた。それは赤ん坊を抱いた女性の絵であった。これは聖母マリアなのだが、キリストの母であるマリアのことなど知らない松之助は、この絵の意味なんて分からない。十字架に張りつけにされたキリストを見たくて来たというのに、見込み違い。そもそも吉利支丹の集まりではないかもしれないと疑っていると、絵を掛けた人がその前に跪き、続いて残りの人たちも四、五人ずつ横に並んで跪いた。
今から何が起こるのか。
いつでも逃げられるように、松之助は一番後ろで跪ずく。そして皆がするように両の手の指を組んで俯いた。すると一番前の者が「はあてるのうすてる」と唱え出した。
天に御座ます我等が御おや
御名を貴まれ給へ
御代来り給へ
天にをひて御おんたあでのまゝなるごとく
地にをひても在らせ給へ
我等が日々の御養ひを
今日与へたび給へ
我等より負ひたる人にゆるし申如く
我等負ひ奉る事を許し給へ
我等をてんたさんに放し玉ふ事なかれ
我等を凶悪より逃し給へ
唱えている男はキリスト教の神父、伴天連である。唱え終わりに「あめん」と言うと、全員が「あめん」と復唱した。すると伴天連はこちらに向き直り、
「みなさん、毎日の働きご苦労様です。主はご覧になっていますよ」
と話し始めた。
「みなさんの働きで荒れた地が蘇っていきます。しかも皆さんは新しい地を作って神に近づいていく。主は喜んでいらっしゃいますよ。祝福は必ずもたらされます」
伴天連は皆を見回して一息つくと、声を強くして続けた。
「私たちの尊き仲間が捕えられることは辛いことです。しかし疑ってはなりません。主を信頼してこそ山は動くのです。苦しい時はオラショを唱えなさい。私たちの苦しみはイエス様が引き受けてくれます。苦難をわかってくださるイエス様を信じて、オラショを絶やすことなく続けなさい。みなさんのオラショが禁令を解くことでしょう」
オラショとは祈りのことである。祈ることで報われると、伴天連は皆に言い聞かせている。
「裏切者のユダでさえ、イエス様はお引き受けになった。裏切られるとわかっていながら寝食を共にして遠ざけることなどなさらなかった。残念ながらその慈悲にユダは気づけなかった。なぜでしょう?」
ユダとはイエス・キリストの弟子のことである。神を名乗る冒涜者としてイエスを捕えようとしていた祭司長に手引きをして、イエスを捕まえさせた裏切者である。
「オラショだけでは足りなかったのです。足りなかったのは感謝。感謝の気持ちでオラショを唱えなければなりません。今耕している土に感謝を。埋めている海に感謝を。共に働く仲間に感謝を。
イエス様が磔になったことで、イエス様への感謝に気づいたユダは自らを悔いて命を絶ちました。なぜユダは死んだのでしょうか?
ユダもまた引き受けたのです。裏切りという苦難を」
伴天連は後ろを振り返ると掛けてある絵を見た。
「マリア様は神の子、イエス様を産んでお育てになった。皆さんにも命をくれた母親がいるでしょう。感謝なさい。今の自分に不満を持っていては感謝はできません。主はわたしたちを救うため、汚れた心を清く変えるためにオラショをお与えになったのです。感謝のあるオラショは主に届きます。粘り強く続けなさい」
そう言うと伴天連はまた跪き、手を組んでオラショを唱え始めた。しかしさっきとは違い一文ずつ皆で復唱した。すべての復唱が終わると今度は一人一人の前へ来て頭に水を振りかけ、そして散会となった。
帰りも松之助は五人の後について歩くのだが、頭の中は伴天連の言葉でいっぱいである。
苦しみを引き受けるイエス。
山を動かすことで神になれる。
感謝無き者は死ぬ。
イエスの母、マリア。
どの話も松之助の心を揺さぶり、その晩、松之助は興奮して眠れなかった。
そしてその日以来、山を動かすことが松之助にとってのオラショになったのだった。
つづく
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