28 梅すだれ-御船
前話
お菊の村登立は北から海が入り込んでいて湿地が多く、それほど作物のとれる土地ではない。お菊が十二歳で奉公へ出たのは食い扶持を減らすためだった。それなのに子どもを連れて帰ってきたのだから実家でのお菊は肩身が狭い。子どもを産んだばかりの姉に、
「坊ちゃんは育ててやるからお前は奉公へ行け」
と言われてもお菊は首を縦には振らず、
「坊ちゃんはおいが育てる」
と息を吹き返した庄衛門を家宝と言わんばかりに大切に育てた。
愛嬌があり器量よし、しかも運よく生き延びたお菊には奉公の話がいくつも来た。しかしどれも、
「坊ちゃんを育てるのがおいのせんといかんことと」
と我を張って断った。ところが五年が経ち、お菊は二十一歳、庄衛門は十歳の春にどうしても断れない話が来た。この頃農民が豆腐を作ることは贅沢として幕府が禁止をしていた。藩主の指定した者だけが豆腐を作ることができ、食べられるのは武士階級に限られている。その熊本城のお殿様御用達の格式ある豆腐屋へ後妻として嫁ぐという話で、お菊にとっては願ってもいない吉報である。なぜそのようなところから話が来たかと言うと「お菊を次男の嫁にしたい」と亡くなった魚醤屋の女将が姉である豆腐屋の女将に話していたことから、若くに亡くなった嫁の代わりはお菊だと豆腐屋の女将が決めたのだそうだ。
逃げられない縁談に、お菊は庄衛門のことを姉に頼み泣く泣く嫁いだ。しかし姉は育ててやると約束したというのに、お菊が去った二日後に庄衛門を奉公へ出した。奉公先は御船の西のはずれの干物屋である。
用なしとして捨てられた庄衛門であったが干物屋での生活は楽しかった。と言うのも登立では何かと遠慮していて、特に食べることに関しては子どもながらに節制していた。しかし干物屋では好きなだけご飯を食べられる。
干物屋へは毎日たくさんの干物が集まってくる。漁師たちが有明海で獲った魚を売りに来るのだ。番頭がその魚の数を数えたり目方を量ったりして買い取ると、残りの使用人たちが魚の腹を切って開く。その開いた魚を糸で結わえて竿へ干すのを庄衛門は手伝った。しかし生来の不器用から結わえるはずの魚のしっぽをちぎってしまう。そうすると庄衛門はめげることなくその魚の目玉をくりぬいて紐を通して干すのだった。
心配して様子を見に来たお菊はそんな機転の利く庄衛門を、頭の良さは上の坊ちゃんにそっくりだと褒め立てた。そして登立にいた頃のように誰にでもにこにこと笑顔を絶やさない庄衛門を、
「愛嬌の良さは下の坊ちゃんにそっくりと。お二人のいいところを坊ちゃんはもらったと」
と嬉しそうに帰っていった。 お菊と庄衛門が姉弟だと思っている干物屋の使用人たちは、
「姉さんから『坊ちゃん』と呼ばれとるとか」
と笑い、おもしろがって庄衛門のことを「坊ちゃん」と呼ぶようになった。
紐で魚を結わえることさえうまくできない庄衛門であったが、石でうろこを取り除いたり開いた魚を水で洗って海水に漬けたりと毎日忙しく働いた。そして三年が経ったとき魚の開き方を教わった。腹に切り込みを入れてはらわたを取り除き、背骨に沿って刃を動かして切り開き、頭を割ってえらを取る。やって見せてくれる者は一呼吸の間でやってしまうのだけれど、期待を裏切らず不器用な庄衛門にはもちろんできない。腹へ切り込みを入れようとすると腹を切り落としてしまうし、開くはずが身を二つに切り裂いてしまう。干物屋へ奉公しながら干物を作ることもできない庄衛門であったが首になったかと言うとその逆であった。
手先を動かすことはうまくできないが頭を使うことはうまかった。なぜか庄衛門は数を数えるのが得意だった。開いた魚は一本の紐に十匹くくりつける。一匹を結わえると一匹分離してもう一匹結わえる。五匹結わえたら三匹分離してまた五匹を結わえていく。それを背の尺ほどの高さの竿に二つ折りで掛けてゆく。魚が重ならないようにずらして垂らしておけば二、三日で完成する。それを一本十匹で売るのだ。十本百匹を束にして卸すのだけど、鳥や猫が食べてしまって十匹に満たない紐もある。そんな時は足りない数だけ値引きをするのだが、庄衛門は欠けた魚の数を正確に覚えているし、魚の数の分だけの値段を即座に言うことができた。
登立で算術を習ったわけではない。干物屋に来て初めてそろばんを見た時、玉の動きと音に庄衛門の体は熱くなった。記憶はないとは言え、魚醤屋で暮らしていた時に聞いていたそろばんの音は懐かしい響きで、魚を買い取る番頭や卸し売りの頭がそろばんを弾きだすと、駆け寄って横に立ちじっと見入るようになり、いつしか番頭のそろばんの玉よりも早く庄衛門が値を言うようになった。
どうやって計算しているのかと不思議に思う番頭に庄衛門は、頭ん中の玉が勝手に動くと言った。
「どんな頭ん中をしとるとか」
と干物屋の誰もが庄衛門の秀でた算術に一目置き、ますます庄衛門を「不器用で大食らいの坊ちゃん」として可愛がるのだった。
つづく
次話